1月: 日本の修士とスイスの修士の話

よく聞かれるのが,「日本の修士とスイスの修士どっちのほうがいい?」という質問だ.この質問は簡単に聞かれるけど,答えるほうは一筋縄ではいかない,と話していて思う.話していて,特にヨーロッパの学生に聞かれるとずいぶんキャリア観に対する差が出るなぁと思う.

まずこの質問に答える前に,必ず学部について話をするようにしている.学部は,スイスの学生は多様な人たちが一様な教育を受ける場,日本は一様な背景を持ったやつが多様な活動をする場だと僕は思っている.スイスの学部生は,僕が経験しているのはETHというごく限られたサンプルしか無いのだけど,ほぼ全員が本当によく勉強している.これを言うと,「海外の学生は…」という夢想につけ込んだ海外喧噪野郎と同じ文言になってしまうので,言葉を変えると,スイスの学部生は一様であって,勉強以外の選択肢があまりない気がしている.大学とは勉強するところであって…という文言は日本で聞いたけど,スイスに来てから聞いたことが無い.それくらいに当たり前のことなんだと思う.彼らは毎日きちんと授業に出席し,逃したらノートを借り,毎週講義の内容をきちんと復習している.厳しく管理されていて,学生もさらにそれに応じて,大学で学んだことに関しては一様なクオリティを保っているなぁというのが印象として強い.

スイスの学生は一様によく勉強している,と言ったけれど,いる人間は結構多様である.国内だけでも言葉の違う人たちがいて,その人たちがチューリヒに集まるのに,さらに西側ヨーロッパからの移民もいれば,東側ヨーロッパからの移民もいる.アフリカ移民も少数ながらいる.肌の色も違うし,言葉も違う.さらに生い立ちも違う.年齢も違う.高校,こっちで言えばギムナジウムという進学校を卒業してからすぐに入るやつもいれば,軍隊をやってから入ってくるやつもいる.

他方で,僕が過ごして来た日本での学部生は,これもまた東大という限られたサンプルしか無いのだけど,勉強している人もいれば遊んでいる人もいる,という印象が強い.サークル活動に精を出している人もいれば,キャリア用の徳を積んでいる人もいれば,勉強一筋のやつもいれば,学問一筋のやるもいる.ラケットバックを持ってだらだらしているやつと,スーツ着ているやつと,試験勉強に必死なやつと,自分の興味あること以外は興味ありませんといった学者肌のやつが一同に会していたのが日本の学部だった気がする.勉強したいやつには,きちんと大学が門戸を開いている.あるいはしたくないやつには,そいつらを支える仕組みがすでに出来上がっている.そういう生態系が日本の学部にはあったと今にして思う.

だけど,こういう連中のふたを開けてみると,かなり一様だと思う.ほぼ全員が日本人,あるいは日本人とほぼ同化できる外国人で,年齢もほぼ同じくらいで,一浪したかしてないかくらいの違いしか無い.全くタイプの違う人間が,同じ高校だったりすることは本当によくある.同じような出で立ちでこんなに大学生活が違うのか,とも思ったりする.

さて,学部に関して言えば,僕は日本で取ってよかったと思っている.勉強がまわりの東大生にくらべてできないことに気付き,その中で埋もれずに生き抜く方法について考えてきた.自分のしてきたことに一貫性があったとも思えないし,お勉強らしいお勉強にはあまり励んでいないし,胸を張って主張できる確固たるものもないけれど,してきたことのいくつかは知恵となって今の自分に欠くことのできないものになっている.これらは環境が許してくれたものだと今になって感じている.

修士になると,スイスに関しては,多様にさらに拍車がかかる.学部を出て働いてから修士を取りにくる,というキャリアプランも一般的で,さらに留学生も多くなる.グループワークをすると,年齢が全くバラバラということもあった.だけど,授業はかなり一様で,すべて試験なりなんなりで一様に評価される.この授業を終えた,ということがかなり一様にチェックされ,受講者全員が成績順に一列に並べられる.

これの効用として,修士号職業訓練の意味合いが強い.仕事を始めた人が,もう一度体系的に知識を整理する場として利用する人が多い気がしている.あるいは,体系的な知識を獲得して,あらたなキャリアに挑戦するということにも利用されることが多い気がしている.

他方で,日本の修士は,あまり授業に重きを置かないので,多様みたいな議論がどうでもよくなる傾向がある気がする.博士過程の準備期間のように捉えられ,学問の訓練をされる.かなり一人の作業が多くなるので,専攻の人間に誰がいるか,というより,自分のしていることは何か,の方が重きが多い.そして職業訓練に直結するかといわれると微妙な線が多い.少なくともスイスの修士号と比べると,学問を除く職業の訓練としての意味合いは低いと言わざるを得ない.

修士は,このような点で,性格が違うから,比べろと言われても無理がある.さらに,修士号は,平たく言えば「もっとも簡単に取れる有効な学位」で,その国でそのまま生きていこうと思うと,修士号のあるなしはかなり違うし,その国で働きたいなら修士号を取るのが戦略のうちの一つだと思われる.スイスで働きたいならスイスの修士号があると便利だし,デンマークで働きたいならデンマーク修士号があると便利である.ずっと日本で学位を取って来た人間がいきなり例えばフランスで働くのと,日本で学部,スイスで修士を終えた人間がフランスで働くのでは,よく知らないけれど,後者のほうがキャリアという観点で有利な点が多い気がする.

さて,どちらがいいのか,という質問に戻る.一般論ではなくて,僕個人に関して言えば「日本の修士は研究できるから,その点において僕は日本の修士のプログラムのほうが好きだ.だけど,キャリアという観点からは,学部は東大で取ったから,修士はスイス,あるいは他の国で取ってもよかったという後悔がある.」という話をしている.

やっていることそれ自体は,日本の修士のほうが僕は好きだ.先述した通り,おつむが優れず勉強ができなかった学部生活の中で,最後に救いだったのは卒論だった.研究はそれなりにしがいがあったし,これによって訓練された部分はかなり大きかったし,もう少しこの方法で訓練されたいと思えた.

しかし,学問を職業にしたいか,と言われたらそんなことは無いなぁと感じている.それなら社会に自分の仕事を求めるという観点から,海外に機会を広げたほうがよかったかなぁと思わなくもない.そしてそれは言ってしまえば交換留学という選択肢の中から来たスイスでなくても良かった,というのが本音である.日本の学士,日本の修士で自分の出で立ちが国内で固まっているのを見て,柔軟性が足りないのかなぁというちょっとした後悔が浮かぶ.そしてさらには,くるべき国がスイスでなくてもよかったかもしれないし,もっと広く検討できたんだなぁと少し思う.

どちらがいいのか,と一概には言えないけれど,僕個人に関して言えば,「日本の修士でなくともよかったのかな,と一抹の後悔を持っている」という返答を必ずしている.聞いた側がそこまで真剣に答えられることを予想していなかったのか,ちょっと面食らったようになっているのをいつも見ている.

余談:
就職活動でCVと成績表出させるスタイルと,「大学時代頑張ったことは?」といくつか聞かれる質問を埋めていくスタイルの違いはこういうところから来ているのかもなぁと思ったりもする.生い立ちの違う人たちを評価する方法として,成績表と出で立ちを記したものが必要なのもなんとなく理解できるし,一様なバックグラウンドを持った人が異なったことをしているのであれば,背景の質問より「何してきましたか」のほうが有効な気がする.

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昔のメモを整理したら出てきた。
結局、実はあまり大陸ヨーロッパにはなじめなかった。彼らの自分の人生をとにかく第一に考える姿勢は、目を見張る物があったが、結局それにあまりなじめなかった。イギリスやアメリカのような、少しは仕事でもするか、という感じの方があとあと少しだけ自分に近い感じがしている。その中で、何か自分のために修士に来ている人が多く、そういう受け皿があるのはすばらしいことだと思うし、またそれを測る方法は成績だなという感じがする。

最近また勉強したい欲が少し出てきて、昔こんなこと考えていたんだなと思っている。

Lonely Planet Switzerland (Lonely Planet Travel Guide)

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