小物界の小物、マットハンコックの終焉

オフィスで補佐官とキスをしていたことがソーシャルディスタンシングのルール違反としてイギリスの保健省の大臣マットハンコックが辞任した、という短いニュースが日本で流れているらしい。NHK産経新聞で確認した。ハンコックも補佐官も既婚者のダブル不倫ということもあり、日本ではそういう「大衆週刊誌的」消費のされかたをされているように思う。イギリスでもこのスクープの出どころはThe Sunという大衆週刊誌的な新聞である。しかし、このニュースはイギリス政治の政局的にずいぶん大きなニュースのように思う。日本のニュースで触れる必要もないものであるが、ちょっと背景について解説をしたいと思う。

TL; DR

  • ハンコックは最初から最後まで小物だった
  • ボリス政権は外圧によって崩壊するリスクは減ったように思うが、内閣内のパワーバランスが少し変わる
  • どちらかというと、イングランドのCOVID関係の制限は緩和の方向に向かう

背景 ドミニクカミングスの登場

どうしてもこの話を語るために必要な人間、ドミニクカミングスという人物について解説する。

労働党のブレア、ブラウンから政権を奪取した保守党のキャメロンは、長らく党内外で続くEU懐疑者を手懐けるため、またEUから有利な条件を引き出すために EU離脱を問う住民投票のアイディアを出す。2014年の欧州議会選でEU離脱派のイギリス独立党、最大野党の労働党に続き第三党に転落してしまう。これをうけてキャメロンは2015年の国政選挙でEU離脱を問う住民投票を約束する。メディアの予想に反して、国政選挙は保守党が勝ったため、キャメロンは住民投票を実施することにした。

キャメロン自身はEU残留派であり残留キャンペーンをリードしたが、EU離脱派にも大物政治家が集まった。離脱キャンペーンの中心人物には前ロンドン市長で現首相のボリスジョンソンもいた。EU離脱キャンペーンのキャンペーンディレクターには、政党にも属さないが、政府内のアドバイザー職をしていたドミニクカミングスが就任した。(詳しい人からするとここに離脱キャンペーンを率いたマイケルゴーブについても触れるべきかもしれないと思うかもしれないが、出すと話が複雑になりすぎるため一貫してこの記事ではゴーブの話はカットしている)

この住民投票EU離脱派が勝ち、イギリスはEU離脱に向けてかじを切ることになった。また、残留キャンペーンを主導したキャメロンは首相を辞任し、後任の首相を決める保守党総裁選が行われることになった。これに離脱派で最も知名度のあったボリスは出馬すると思われたが、離脱派の内紛により出馬を辞退し、メイが首相に選ばれた。しかしブレグジットの交渉は進まずメイ内閣が倒れ、住民投票から3年後ボリスが首相に就任した。この時「第二次世界大戦以降最も残酷な内閣改造」とBBCに言われた内閣改造を実施し、EU残留派キャンペーンにいた人物の多くや、保守党党首選でボリスを支持しなかった人物をほぼ全員内閣から追い出し、新しくボリス政権として運営していくことになった。これらの人事をほとんど全てボリスと共に決められるボリス政権の最高アドバイザーとしてカミングスは就任した。

小物界の小物、マットハンコックとは誰か?

ハンコックは言ってしまえば、出世欲が出過ぎで、勝ち馬に乗ろうとする姿勢が見えすぎており、権力に高揚感を示す小物である。

ハンコックは、オックスフォード卒の白人で「あるある」政治家である(日本の政治家は政治家の子息、というくらいあるある)。イングランド銀行エコノミストになったあと、2005年に野党時代の保守党の大蔵担当オズボーンのアドバイザーになり、そこから出世してオズボーンのスタッフのリーダーとなった。なお、オズボーンはキャメロン内閣で大蔵大臣を務めあげた。その後、自分で選挙に出て当選し、メイ内閣において弱小の大臣職を歴任し、保健大臣にまで上り詰めた。保健大臣というポジションは、大臣ポジションとしては超一流とは言わないまでも一流ポジションである。4大閣僚と言われる首相、大蔵大臣、内務大臣、外務大臣に次ぐポジション群だと考えられる。日本の厚労大臣よりはひょっとしたら出世の芽があるかもしれない。前任の保健大臣はメイ政権で外務大臣に昇任した。(なお、この人は日本語が堪能である)

ハンコックはEU残留派だったものの、保守党党首選でボリスを支持したため、前メイ内閣の後期に務めていた保健大臣を続投することになった。なお、この時の保守党党首選に出たが支持者がうまく集まらず、党首選を降りるという小物エピソードを持つ。

順調に「出世」していたハンコックだが、COVIDを受けて、保健に必要以上に注目が集った。ハンコックはこの高揚感を隠せないまま、小物感を丸出しにしてCOVIDの対応に乗り出す。

小物感を隠せないエピソードとしては

  • ロックダウン直後にBBCに出て「多くの人がルールを破るなら、我々は外に出ての運動すら禁止せざるを得ない」と高揚感を伴って言い出す
  • 20年4月、検査のターゲットについて、自分がぶち上げた目標について曖昧な表現をして、達成したかのように見せかける
  • 20年4月、老人ホームの死者について曖昧な報告をして自分の保身に走る
  • 低賃金が問題になっていたケアワーカーも認知されるべきだとバッジを作ったと高らかに発表する

などなど、枚挙にいとまがない。ロックダウン直後、毎日やっていた記者会見では、ハンコックが出てくるたびにTwitterではpathological liar(病的な嘘つき)というコメントが並んでいた。イギリスの国民にも、こういう保身をする態度は見透かされていたのだと思う。

また、今回の件も含めて汚職的なものもあった。

などなど。ただしイギリス人のこの手の人たちの間では、政治家に限らず「自分は特権階級にあるから何をしてもよい」という意識があるように見受けられる。たとえば、ロックダウンを進言したインペリアルの疫学教授はロックダウン中に不倫相手に会いに行き、スカイニュースというイギリスと大手メディアの政治部長は、舌鋒鋭く政治家に切り込んでおきながら自身はパーティに参加していた。そのため、これらのエピソードはイギリスの立場が高い人の特徴を表しているとは思うが、特別ハンコックを特徴付けるとはあまり思わない。

一方でハンコックはCOVID関連の制限で言えばどちらかというと慎重派の高学歴リベラルが好みそうなスタンスである。保健関係の制限はなるべく強い方がいいと思っていたり、ロックダウンは早めのほうがいいと思っている節もある。たとえば、自己隔離をしなければならなくなった人全員に500ポンドを出そうとしていた(大蔵大臣に蹴られたが)。とはいえ、そういう層から人気があるわけではない。

権力闘争の成れの果て カミングスの没落からNuclear Dom

話はハンコックと関係のないところで進む。首相官邸で権力をふるっていたカミングスだったが、20年11月突然翳りが見える。きっかけは、11月に官邸の宣伝部の部長であったリーケインが辞任した。この人は、離脱キャンペーンの主要な人物の一人で、カミングスと密な人であった上に、官邸の統括をしないかという昇進のオファーをボリスからされていた。しかし、これに反対したのが、当時ボリスのフィアンセであったキャリージョンソン(née シモンズ)であった。キャリーシモンズは保守党のPR統括だったことが縁でボリスと結婚した。そのシモンズが、この官邸宣伝部長のコミュニケーションのしかたには問題があると、他の保守党の国会議員を巻き込んでキャンペーンをした。ボリスはこれを聞き入れ、この宣伝部の部長は官邸を去った。このキャリーシモンズとカミングスの官邸内での内紛はこれにおさまらなかった。もちろんシモンズ派であるボリスとの「怒鳴り合い」の口論の末、カミングスは翌週官邸を去った

こうして、有権者の投票によって選ばれたわけではない人物たちの権力闘争は終わっていった。カミングスはボリスと蜜月だったこともあり、国民からの評判もさることながら、国会議員、あるいは大臣からの評判もあまりよくなかった。このカミングスが官邸を去ったニュースには、歓迎ムードがあったように思う。

しばらくカミングスは沈黙していたが、21年5月に突然公の場に姿を表し、大量の暴露ネタを自身のブログツイッターにポストしだす。その暴露ネタの攻撃対象は、ボリスと、COVIDの不人気の象徴であったハンコックだった。特にハンコックの政治の不手際のような物を指摘していた。また、カミングスとボリスの間のwhatsappのスクリーンショットも公開していた。その中には、ボリスがハンコックのことを"Totally fxxcking hopless"と呼んだことや、"またハンコックか!ハンコックをやめさせること以外考えられない"と送っていたというスクリーンショットも含まれていた。これらの暴露スレッドにぶら下がっているツイートは100個を超える。これらの一連の動きは、Metroに"nuclear dom"とまで呼ばれた。カミングスは国会の委員会で証言まで行い、これをうけてハンコックまで駆り出された。

これらのカミングスの狙いは、国民に不人気のハンコックの失脚を自分の手で行うことだったのだと思う。さらにはボリスの失脚も狙っていたのかもしれない。しかし、BBCも分析するように、カミングスがハンコックを攻撃すればするほど、ボリスはそれを受け入れるとカミングスに屈したことになってしまうため、いかに暴露されようともハンコックをやめさせることはできなかったようにうつる。かくして、ハンコックはボリスに貸しも作りしばらく安泰のように思われた。

その後 敗者の小物ハンコックとカミングス、完全勝利のシモンズ

そうした文脈でハンコックのスキャンダルが出た。でもハンコックは辞めることはないと皆思っていた。上に書いたように安泰であった上に、そもそも、ボリスは身内のスキャンダルにとても甘い。カミングスもロックダウン中に地元ダラムまでドライブしに帰っており、ルールを破っていたことがすっぱ抜かれた。これはカミングスの国民からの不人気も合間って、ものすごく叩かれた。また、これもまた国民から不人気の内務大臣が、官僚のいじめをしていたと独立委員会の調査で結論づけられたが、これを受けてもボリスは辞任を求めなかった。なのでそもそもハンコックのスキャンダルは、ボリス政権からすると辞めるほどのものではなかった。また、日本と違い、不倫があったからといって騒がれるように国でもない(なので、叩かれていたポイントも「ソーシャルディスタンシングのルールを守ってない」ということになっている。ルールを守っていないことは叩かれる)。

でもハンコックは辞任した。ボリスは高笑いが止まらないと思う。政権のしてきた公衆衛生上の政策の失敗(PPEの確保や接触者追跡システムの構築失敗)はハンコックのせいにできるし、成功したもの(ワクチンの展開)は自分の手柄にできる。これはすでに始まっている。毎週ある首相討論では毎週任意の質問に「政府はワクチンの展開に成功した」で答えているし、失敗した接触者追跡システムはトーンを落としながら「確かに前作ったものは問題がある、再構築する」と述べている。さらにはカミングスに叩かれるポイントも勝手にいなくなってくれたので、カミングスはもうボリスを攻撃する手段を失っている。もちろんもっと暴露ネタはあるとは思うものの、国民がCOVIDに興味があったことを考えるとハンコックを失ったのは一番のタマを失った感じがある。その意味でしばらくカミングスのリスクにさらされてたボリスは、当分安泰だろう。逆に、ハンコックはワクチンの手柄は取り上げられて、最悪のタイミングで辞めたので政治家としてこれ以上出世していくのは厳しいように思う。

ハンコックはなぜ辞めたのか。言ってしまえば「仕事より女を取った」感じがある。ハンコックは現在の奥さんを離れ、不倫相手と暮らすそうだ。不倫相手は大学の同級生である。この記事に不倫の馴れ初めがまとまっているが、「高嶺の花である不倫相手とおとなしかったハンコックは、大学の時に微妙に近くロマンスも少しあったかもしれないものが、大人になり再会し…」という話がまとまっている。事実は小説よりも奇なり、という感じが読んでいてとてもする。しかし、辞める必要のない環境の中、大臣職を離れて不倫相手を取ったとて、ハンコックにどれだけの価値が残っているのかは不明である。政治家としてこれ以上のし上がっていくのはしばらくは厳しいようにうつる。政治家としてはやめたほうがいいとは思うものの、職業人としては、辞めたら政治生命が絶たれる一方でやり過ごせる環境だったのだから辞めずにほとぼりが冷めるまで待てばいいのに、と思わなくもない。このことから、個人的感想だが、最後まで小物だったように思う。

カミングスは思わぬ形でハンコックに辞任されたため、注目を急に失った。いまだに暴露ネタをしているが、あまり注目は集まらない。ハンコックも自分の成果で辞めたわけでもないし、多分本丸のボリスにカミングス自身の手では辿り着かないだろう。

保健大臣の後任は、ボリス政権で最初に大蔵大臣を務めたジャヴィドになった。ジャヴィドは、比較的政治の世界で重鎮であり、それはBBCに「重量級」とまで書かれる。ボリスは党内権力のない人物を閣僚に任命したうえで好き勝手やっていた節があるので、メディアからもジャヴィドが戻ってきたことは肯定的に報じられている。ジャヴィドは一度、実質的にボリスとカミングスのタッグから大蔵大臣のポストを追い出されている。そして、自身が政治の前に20年程度キャリアを築いてきたシティのJPモルガンのアドバイザーの職を国会議員と兼任をはじめて、政治への興味が薄れているように映っていた。

なぜジャヴィドが戻ってきたのか?それは、キャリーシモンズの信頼が厚いから、と一部言われている。こうして、EU離脱キャンペーンの仲間たちは消え、キャリーシモンズが権力闘争に勝った。首相官邸の権力はシモンズが「重量級」を迎えて握っている。こうして内閣内のパワーバランスも変わり、これからはかつてのカミングス-ボリスの政策決定プロセスとはタイプが違ったものが出てくることが決定的になったように思う。

イングランドのCOVIDの政策はハンコックからジャヴィドになったことによって変わるのか。しばらくは保健に対して保守的な政策は取られないと思う。ジャヴィドは、「いつまでもロックダウンはできない」と就任後初めての国会でのスピーチで述べた。保健のステークホルダーを守るタイプであったハンコックとはタイプが違う(もちろん、ハンコックの意見はあまり考慮はされなかったのでそれがどれだけの意味をもつかというところについては疑問符が付く)。ロックダウンに懐疑的な保守党の議員から歓迎された。保健大臣がこの論をはるということは、保健政策に対して保守的な方向に議論はもう向かない。と、書いていたらかなりラディカルなリオープニングがボリスから発表されていたが、今後このようなリオープニングの方向に振ったものがしばらく出続けると予想される。