恋愛について
- 作者: 中村真一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1989/11/16
- メディア: 文庫
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時間がない。30分でまとめる。
まったく文字通りそれについて語った本。
アンソロジーで、さまざまな人が書いた小論評みたいなのの寄せ集め。
配置がわりと工夫されていて、時代をさかのぼるようにして配置されている。
こういう本って、立体的にいろんな視点を得るためにあるんじゃないかな、と思うので、
とりたててコレ!ていうまとめが出てこない。
印象に残った論点を何個か。
・今の自分の「愛」という考え方が、非常に現代的であったことを確認させられる。
歴史の順に並ぶので、こうして今は男女平等の時代でーなんていうのが、非常に現代的な文脈に並んでいるように感じる。
現代的な立場では、愛や恋というのは、いろんな制度、約束事から自由になった行為で、
そしてそれには、「孤独」がそれなりのキーワードだったりする。
孤独を愛せる人、自分が自分として愛せる人が、きちんと他人を愛せるのかな、と思う。
・実はもっといろんなこととの複合技だったように思える
愛に関しての議論は、いろんなことと結び付けておこなわれる。
それはなぜなら、それ一つとして人間の営みではないからだ。
本質的な人間の営みは、それ自体複雑に絡みあっている。その中の一種である。
・愛という概念は輸入されたもの
これははじめて知ったわ。
キリスト教の概念だよね。
いろんな制度やらを導入せずとも、これだけを導入したところに、近代日本の愛の苦悩がある。
「他者は自分と同じような思考様式をして、そしてそれを自分を愛するように愛せ」
これが基本思想。
西洋は絶対的な基準がいて(神)それのもとに全員が平等である、という認識で愛や憐れみという行為を行うが、
東洋では、もっと上から目線てきなものがある。
信仰がない限り、二人が一緒にいる、というのは虚偽である。
存在をきちんと峻別した概念が愛であり、日本にはその文化がない。
日本語にその一端がよくあらわれている。日本語は関係詞もなければ明確な前置詞もない。
日本、あるいは東洋は、来世という考え方がある。
これは現世にたいするあきらめではなくて、来世から逆照射する現世をいきる思考である。
こうして無をいしきすることにより、それは神の絶対的な役割を果たす。
ヨーロッパ人が意識する悪という概念。つまり、負の考え方も持ち合わせた考え方と
無から出発する日本人の考え方。
実はこんな風にして二つの選択肢が目の前にあるんですよっていう考えはそれなりに新しいと思った。
もともと愛がヨーロッパの概念である、つまるところ個人主義の概念であるということは捨ててはならない気がする。
そこまで峻別される意識が日本にないにせよ、そういう概念にたいして、その文化がどういうアプローチをとるか、というのが見ものである。
・もっとも意識させられたもの。
精神と肉体性の話。
こういう本を読むと、どうしても
「こういう考え方をするといいんじゃないか」
というような、思考、あるいは理性がすべてを支配するように考えがちである。
そしてその理性の絡め取る触手のうちに、愛が収まっているような記述を見受ける。
しかしながら、愛だの恋だの、ってのはそんなものじゃない。
精神と肉体の自分自身の中のせめぎあいなのだ。
そして、どうしても精神は勝てない。
実は、もっと肉体的な行為であって、概念的なものでなく、さらには経験が伴うものなのだ。
当たり前のことだけどさ、こうやって本を読んだところで、何か解決するわけじゃない。
そういう考え方を入れるだけであって、それは何一つとして本質的ではないのだ。
思想ではなくて、行為である。
そしてそれは実践あるのみ。
テーマはLOVE.
それは個人主義に基づく強い行為性に支配された行為。