Mr. Childrenと天ぷらの話

村上春樹は、上手な自己紹介の文章を書くコツとして「天ぷらについてかくように」といった。これは、あまり特別でないものに対して、自分との関係を書くことによってオリジナリティを出していく、というような文意だったと記憶している。

ここでMr. Childrenについて書くというのは、僕と天ぷらについて書くようなものである。桜井和寿論、みたいなことを言い出せるほどMr. Childrenを聞いてない。さらに、そこまでエポックメイキングだったように思わない。もし僕がエポックメイキングだと真に信じているミュージシャンのうちの一人Jeff Beckについて書くなら、自分との関係というより、他の音楽との関係について書き、どれだけJeff Beckはオリジナリティのある挑戦を繰り返したのか、ということを説得するために書きたい。だが、別にMr. Childrenはそのような位置付けが可能であると僕は思っていない。

ミスチルを聞いています、といいだすのは微妙に恥ずかしい側面がある。一方で、別にエポックメイキングではあると思わないけれど、いろんな恥を忍んで書けばミスチルは少なくとも僕の多感な時期の数ページを彩ったことは否定できない。僕個人の文脈の中に、いろんな彼らの曲が整理されている。今日はそういうものについて書きたい。僕と天ぷらについて書くように。

僕が聞き出したのは、優しい歌や君が好きの時期であったように思う。初めてのベストアルバムを出す程度に仕事がまとまり、暗い歌を歌うことをある程度やめた時期であるように認識している。いろいろ聞いたけど、特に深海前後が好きであった。勝手にベストアルバムについていた解説などのうろ覚えの知識でこの前後の時期をさっと振り返る。

Cross roads, innocent world などJ-pop黄金時代の時流に乗りつつヒットを重ねて、これなら売れると書いた瞬間に確信したらしいtomorrow never knowsを出して見事ミスチル史上最大の売り上げをあげたが、そこからどうやら桜井本人の生活が乱れ、方向性を失ったらしく、その混乱の果てに出てきたものが深海である。深海はサウンドが重く、また結構バンドサウンドのものが多い。そして歌詞はやたらと暗いし、最近のファンからは考えられないくらい歌詞が暗い。tomorrow never knowsを含む、この時期に出ていた明るめのポップスは、このアルバムには入らず、二枚組構想とも呼ばれていたboleroに収録されている。boleroの後、活動休止し、一年後に終わりなき旅や光の射す方へなど希望があるようなシングル曲を含むDiscoveryを出し、同じような路線でQを出し、ベストアルバムとして10年くらいの仕事をまとめ、そのあとはIt’s a wonderful worldなどのファンを増やす応援歌のようなポップスへと向かっていく。

たしかミスチルを聴いていたのは中学生くらいの時だった気がする。当時ギターを始めたばかりで、B’zが好きだった。B’zはウルトラソウルを出していたころである。ベストアルバムを一通り聞き、耳障りの良さが気に入り、よく聞くリストに入っていた。しかしそのままハードロックに傾倒してししまい、B’zは生き残ったものの、聴いていたゆずやミスチルは奥へと追いやられた。

高校生になると、バンドを始めた。うまくいかなかったけれど。この時に何かできるものがないかなと思い、ミスチルを聞き返してみると、ポップス路線のものは金もテクもない高校生が再現するのにはすごいつらかったが、深海やBORELOやニシエヒガシエの時期の曲はバンドサウンドが前に出てくることが多く、ハードロックから一周回ってこれらはよく聴いていたように思う。

その後、何のきっかけだか忘れたが、多分高2くらいで深海は僕の中で再発見される。深海はブックオフで安く、CDとして持っていたことも影響していると思う。また、アトミックハートもBORELOも偶然持っていた。逆に、それ以外は持っていなかった。全体的に暗く、何かもがくようなものが自分の心を掴んでいた。そして、大学に入って、何度か「桜井さんの歌詞は本当に素敵」というようなミスチル好き女性を見かけるたびに、この時期のミスチルが何と無く愛すべき対象のように思えた。

終わりなき旅に励まされたことがないといえば嘘になる。HEROのようなポップス路線に心が動かなかったといえば嘘になる。だけど、深海のような、混乱から出てきたり、その前のダンスダンスダンスやラブコネクションのようなあからさまなイライラや人間の微妙に汚い部分が暗に伝わるような曲の方に、心は惹かれる。

そして、音楽は自分の生活の大きなパートからは外れてしまったが、つい最近ミスチルはネット配信されているらしいことを知り、もう一度聞いてみるか思った。そして、深い混乱にあった桜井和寿の年齢を実は少し超えていることに気づいた。

深海の前後では、エポックメイキングでないもののtomorrow never knowsを自分の推測よりあて、ジミヘンやカートコバーンが経験したものと似た混乱が桜井を襲い、その混乱を深海に放ったのだと思う。その後、活動休止を経て、混乱から回復したような歌詞である終わりなき旅を放ち、仕事をベストアルバムとしてまとめ、そして「憎めよ生まれてきた悲劇」とも言ったこの世界をIt’s a wonderful worldというカウンターとも言えるアルバムを出しポップ路線となり、大学で出会った僕よりまっすぐな人たちの心にまっすぐ届くようにメッセージをだすようになったと思うと興味深い。

別に混乱したいとは思わないけれど、自分にもこういうヒットを経てある程度優しくなれたらなと思う。ただのおっさんまっしぐらだけど。こういう目線でミスチルの深海前後を見て、彼らの年表と自分のキャリアを重ねると、自分は実は勝負所はいまなのかもしれないと思っている。

シャイニングスコーピオン的光景

ちょっと前にまとめた文章を公開してみる。とはいえ今とあまり変わらない。まぁまぁ久々の行き場のない思いである。特に行き先のない思いが交錯し、行き先のない自分がいる。

今現状の何に対して/何がきっかけでそう思ったか、という具体的な話は直接は語らない。だけど、今何を思っているかについて記したい。

行き場のない思いは久々である。
行き場のない思いを最初に感じたのは、あるいは僕の中で「行き場のない」の定義となっているのは、小学生のシャイニングスコーピオンというゲームの経験である。ミニ四駆のゲームで、レースに勝つことを目的としたゲームである。レースで勝つことによりたまるポイントでパーツを買い、強く(速く)なっていく。大きいレースを勝ち進むと、次の大きいレースに進める。一方で、負けると修行街のような街に送られ、そこでのレースに勝たないと本編に戻れない。一度負けると、負けて送られた先で勝たないといけないのだが、一つ注意しないといけないポイントは、買ったパーツが磨耗し、弱く(遅く)なるという点である。レースをするも勝てないとポイントも手に入らず、パーツだけが摩耗し、もういちどレースに挑戦しても負けて戻れない、ということがおこる。小学生ながらに「ああもうここで俺は終わりなんだな…」という気持ちになって、ついぞ29歳になった今に到るまでクリアしていない。また、僕の「行き場のない思い」や「絶望」の基礎を作るに至っている。

この「もうどうしようもない」のような思いを実際に経験したのは、人生の中で今の所2回である。高三の時に東大に落ちたときとスイスにいたときである。

東大に落ちた時、真っ先に思い出したのはシャイニングスコーピオンだった。少し背景について補足しておくと、高校は上20%くらいにいたら高確率で現役で東大に合格する高校で、高三の時は成績がだいたい上20%くらいだった。また、現役生で取れたら受かると言われていた東大模試でのA判定も出していた。僕以上に、周りが受かると思っていたと思う。一方で当時東大に落ちること自体は許容していた。別に落ちても死ぬわけではない、ともともと思っていて、現役で受かった大学に行こうと思っていた。でも問題は落ち方で、苦手だったセンター試験が1点足らずに一次で切られた。現役で決めようと強く思っていたけれど、ここまで不完全燃焼感が残るとは想像していなかった。「受かる」と言われていたのだから、最低限挑戦したかった。「あと1点あったら」という思いが頭を駆け巡るが、その思いがいくら僕の頭の中を駆け巡ってもその1点は動かない。結局他に合格していた私立大学には行かずに浪人することになったが、あの時の「どこにも行けない」気持ちはシャイニングスコーピオンに近い。またそのあと「あの時1点あったら」 のようなことは思わなかったが、もう少し曖昧な行き場のない思いを一年間抱えていた。

#別にいまだに浪人したことに対してコンプレックスがあっていまだに大学受験の細かい点数を覚えている…のようなことでは全くない。むしろこれ以外のことはもうほとんど覚えていない。ただこの時に「受かると言われていたんだから挑戦したかった」と思ったことに付随する感情を強く覚えているという話であるし、それでしかない。

時は過ぎて、大学院生の時にスイスに交換留学した。これは本当に何もうまくいかなかった。寮に入っていた日本人は上手に日本人コミュニティを作って盛り上がっていた。一部の日本人はインターナショナルなコミュニティを作っていた。それを尻目に、僕は細々と授業で仲良くなった人とたまに遊びにいったり、たまに日本人コミュニティに顔を出すもあまり溶け込めず徐々にフェードアウトした。結局最初半年は英語は勉強したけどそれ以外はチューリッヒ湖の辺りでウィンナー食べつつ白鳥にパンを与えながら1日が過ぎていったこと以外あまり記憶がない。そんな中で何かインターンシップや研究したいと思った。まずは研究がいいかなと思い、先生にメールして、受け入れてもらえるということだったが、事務手続きがうまくいかずにポシャってしまった。インターンシップをしようと思い、いろいろ書類を出したが、やはり交換留学生がいきなり職を見つけるのは難しく、履歴書出しても返事は来ないし、返事が来て選考進めようと言われても「スイスの大学はいつ卒業するんだ」と聞かれて、東大の所属であることを説明したらそのまま流れた。「今までどうにかなってきたし、今回もどうにかなるだろう」と思っていたが、ついぞどうにもならなかった。「こんな思いをするためにスイスに来たんだっけか?」となんども思ったが、帰国してもすることないと思い、何もできなかった。時間があったので本当に本当にあちこち旅行した。ヨーロッパは行き尽くしたし、もうヨーロッパに旅行に行きたいと思わないのだけは人生のなかでプラスだと思ってはいる。ただただ時間は過ぎていくが、どこにも行けない思いが、ふとシャイニングスコーピオンを思い出させた。本当に履歴書的には何も大した経験をしないまま、日本に一年経って戻った。残ったのは、微妙に英語に対して物怖じしなくなった根性だけである。そしてそれは英語を操る技術自体とあまり関係がない。ヨーロッパに対していろいろ視点はできたが、直接それが飯の種になることは多分ない。

「何かしようと思っても、どこにも行けない」という思いに、今徐々に近づきつつある。今の場所から俺はどこにもいけないのでは、と思うような出来事が多い。スイスから帰ってきてからは、もうこういう思いはしないと強く念じ、積み上げていったと思っていた。積み上げが微妙にうまくいかないところもあったけど、とりあえず現状ではある。一方で、現状からだんだん行き止まりに衝突しそうになっているのを何もできずに見ている立場になりつつあり、積み上げてきたものが全部間違っていたのでは、という思いが微妙に交錯する。

もう若くない。大学受験なんてどうでもいい。スイスはもう少しやりようがあったと思うが、クソが、インターナショナルな環境でもっとうまくやってやる、って思えなければ今とは違っていたかもしれず、そういう観点からは自分には必要な一年だったのかもしれない。でも、今、ここで積み上げたものが全部間違っていた場合、あるいは間違っている割合がクリティカルな量を超えていた場合、どうしたらいいのかよくわからない。今出口がないのか、それともただただ運が悪いのが少し続いているのか、よくわからない。

1月: 日本の修士とスイスの修士の話

よく聞かれるのが,「日本の修士とスイスの修士どっちのほうがいい?」という質問だ.この質問は簡単に聞かれるけど,答えるほうは一筋縄ではいかない,と話していて思う.話していて,特にヨーロッパの学生に聞かれるとずいぶんキャリア観に対する差が出るなぁと思う.

まずこの質問に答える前に,必ず学部について話をするようにしている.学部は,スイスの学生は多様な人たちが一様な教育を受ける場,日本は一様な背景を持ったやつが多様な活動をする場だと僕は思っている.スイスの学部生は,僕が経験しているのはETHというごく限られたサンプルしか無いのだけど,ほぼ全員が本当によく勉強している.これを言うと,「海外の学生は…」という夢想につけ込んだ海外喧噪野郎と同じ文言になってしまうので,言葉を変えると,スイスの学部生は一様であって,勉強以外の選択肢があまりない気がしている.大学とは勉強するところであって…という文言は日本で聞いたけど,スイスに来てから聞いたことが無い.それくらいに当たり前のことなんだと思う.彼らは毎日きちんと授業に出席し,逃したらノートを借り,毎週講義の内容をきちんと復習している.厳しく管理されていて,学生もさらにそれに応じて,大学で学んだことに関しては一様なクオリティを保っているなぁというのが印象として強い.

スイスの学生は一様によく勉強している,と言ったけれど,いる人間は結構多様である.国内だけでも言葉の違う人たちがいて,その人たちがチューリヒに集まるのに,さらに西側ヨーロッパからの移民もいれば,東側ヨーロッパからの移民もいる.アフリカ移民も少数ながらいる.肌の色も違うし,言葉も違う.さらに生い立ちも違う.年齢も違う.高校,こっちで言えばギムナジウムという進学校を卒業してからすぐに入るやつもいれば,軍隊をやってから入ってくるやつもいる.

他方で,僕が過ごして来た日本での学部生は,これもまた東大という限られたサンプルしか無いのだけど,勉強している人もいれば遊んでいる人もいる,という印象が強い.サークル活動に精を出している人もいれば,キャリア用の徳を積んでいる人もいれば,勉強一筋のやつもいれば,学問一筋のやるもいる.ラケットバックを持ってだらだらしているやつと,スーツ着ているやつと,試験勉強に必死なやつと,自分の興味あること以外は興味ありませんといった学者肌のやつが一同に会していたのが日本の学部だった気がする.勉強したいやつには,きちんと大学が門戸を開いている.あるいはしたくないやつには,そいつらを支える仕組みがすでに出来上がっている.そういう生態系が日本の学部にはあったと今にして思う.

だけど,こういう連中のふたを開けてみると,かなり一様だと思う.ほぼ全員が日本人,あるいは日本人とほぼ同化できる外国人で,年齢もほぼ同じくらいで,一浪したかしてないかくらいの違いしか無い.全くタイプの違う人間が,同じ高校だったりすることは本当によくある.同じような出で立ちでこんなに大学生活が違うのか,とも思ったりする.

さて,学部に関して言えば,僕は日本で取ってよかったと思っている.勉強がまわりの東大生にくらべてできないことに気付き,その中で埋もれずに生き抜く方法について考えてきた.自分のしてきたことに一貫性があったとも思えないし,お勉強らしいお勉強にはあまり励んでいないし,胸を張って主張できる確固たるものもないけれど,してきたことのいくつかは知恵となって今の自分に欠くことのできないものになっている.これらは環境が許してくれたものだと今になって感じている.

修士になると,スイスに関しては,多様にさらに拍車がかかる.学部を出て働いてから修士を取りにくる,というキャリアプランも一般的で,さらに留学生も多くなる.グループワークをすると,年齢が全くバラバラということもあった.だけど,授業はかなり一様で,すべて試験なりなんなりで一様に評価される.この授業を終えた,ということがかなり一様にチェックされ,受講者全員が成績順に一列に並べられる.

これの効用として,修士号職業訓練の意味合いが強い.仕事を始めた人が,もう一度体系的に知識を整理する場として利用する人が多い気がしている.あるいは,体系的な知識を獲得して,あらたなキャリアに挑戦するということにも利用されることが多い気がしている.

他方で,日本の修士は,あまり授業に重きを置かないので,多様みたいな議論がどうでもよくなる傾向がある気がする.博士過程の準備期間のように捉えられ,学問の訓練をされる.かなり一人の作業が多くなるので,専攻の人間に誰がいるか,というより,自分のしていることは何か,の方が重きが多い.そして職業訓練に直結するかといわれると微妙な線が多い.少なくともスイスの修士号と比べると,学問を除く職業の訓練としての意味合いは低いと言わざるを得ない.

修士は,このような点で,性格が違うから,比べろと言われても無理がある.さらに,修士号は,平たく言えば「もっとも簡単に取れる有効な学位」で,その国でそのまま生きていこうと思うと,修士号のあるなしはかなり違うし,その国で働きたいなら修士号を取るのが戦略のうちの一つだと思われる.スイスで働きたいならスイスの修士号があると便利だし,デンマークで働きたいならデンマーク修士号があると便利である.ずっと日本で学位を取って来た人間がいきなり例えばフランスで働くのと,日本で学部,スイスで修士を終えた人間がフランスで働くのでは,よく知らないけれど,後者のほうがキャリアという観点で有利な点が多い気がする.

さて,どちらがいいのか,という質問に戻る.一般論ではなくて,僕個人に関して言えば「日本の修士は研究できるから,その点において僕は日本の修士のプログラムのほうが好きだ.だけど,キャリアという観点からは,学部は東大で取ったから,修士はスイス,あるいは他の国で取ってもよかったという後悔がある.」という話をしている.

やっていることそれ自体は,日本の修士のほうが僕は好きだ.先述した通り,おつむが優れず勉強ができなかった学部生活の中で,最後に救いだったのは卒論だった.研究はそれなりにしがいがあったし,これによって訓練された部分はかなり大きかったし,もう少しこの方法で訓練されたいと思えた.

しかし,学問を職業にしたいか,と言われたらそんなことは無いなぁと感じている.それなら社会に自分の仕事を求めるという観点から,海外に機会を広げたほうがよかったかなぁと思わなくもない.そしてそれは言ってしまえば交換留学という選択肢の中から来たスイスでなくても良かった,というのが本音である.日本の学士,日本の修士で自分の出で立ちが国内で固まっているのを見て,柔軟性が足りないのかなぁというちょっとした後悔が浮かぶ.そしてさらには,くるべき国がスイスでなくてもよかったかもしれないし,もっと広く検討できたんだなぁと少し思う.

どちらがいいのか,と一概には言えないけれど,僕個人に関して言えば,「日本の修士でなくともよかったのかな,と一抹の後悔を持っている」という返答を必ずしている.聞いた側がそこまで真剣に答えられることを予想していなかったのか,ちょっと面食らったようになっているのをいつも見ている.

余談:
就職活動でCVと成績表出させるスタイルと,「大学時代頑張ったことは?」といくつか聞かれる質問を埋めていくスタイルの違いはこういうところから来ているのかもなぁと思ったりもする.生い立ちの違う人たちを評価する方法として,成績表と出で立ちを記したものが必要なのもなんとなく理解できるし,一様なバックグラウンドを持った人が異なったことをしているのであれば,背景の質問より「何してきましたか」のほうが有効な気がする.

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昔のメモを整理したら出てきた。
結局、実はあまり大陸ヨーロッパにはなじめなかった。彼らの自分の人生をとにかく第一に考える姿勢は、目を見張る物があったが、結局それにあまりなじめなかった。イギリスやアメリカのような、少しは仕事でもするか、という感じの方があとあと少しだけ自分に近い感じがしている。その中で、何か自分のために修士に来ている人が多く、そういう受け皿があるのはすばらしいことだと思うし、またそれを測る方法は成績だなという感じがする。

最近また勉強したい欲が少し出てきて、昔こんなこと考えていたんだなと思っている。

12月:言葉と間借りの話 居候の言葉としての英語

スイスは国の中で4カ国語話されており…という教科書的な説明はさておいて,こと僕の住んでいるチューリッヒでは,母語であるドイツ語に加えて,フランス語イタリア語が通じるかは試したことないが広く英語が通じる.大学教授はもちろんのこと,スーパーのおばちゃんやら市役所のおばちゃんまでわりかし広く英語が通じる.僕も生活言語が英語になりつつあるし,今のところ何も困っていない.

僕のドイツ語に関して言えば,その昔ドイツ語をかじっていたのだけど,結局ものにならないまま終わってしまった.やり直そうかと思って文法書やらなにやらを持って来たのだけど,こっちに遅れて来た関係で外国人向けドイツ語の授業はどれも満員,自分でやろうにも時間もない.もともとドイツ語は偶然の重なりで始めたもので特別な動機付けがなかったことも相まって,結局ドイツ語を勉強し直す機会がなくなってしまった.大学の授業は外国人が割に普通にいるので英語で行われていて,友達とも英語で会話することになる.ここでわざわざ俺のできないドイツ語を出す必要はどこにもないし,ただでさえ英語でも言いたいことがいえないのだから,さらに不自由な言語を出すつもりもない.じゃあ街で話せばいいじゃん,となるのだけどそうもいかない.わざわざドイツ語がよく分からない俺がドイツ語を使うと混乱するし,結局最後複雑なことを言おうとすると英語になる.相手も英語で十分に通じるし,本当にいざという時以外はだいたいこれで済む.さらに言えば,英語も別に彼らにとってはネイティブ言語ではないから,わからないということもあまりおこらない.たとえ英語のミスコミュニケーションが起こっても,そのこと自体にはとても寛容である.

外国に住んでいるのにこの上なく快適だなーと思うことがことスイスでは多い.そしてそれが来た時から違和感としてあって,だんだん表に出て来た.今まで旅行して来た外国というのは,僕にとってだいたいが苦労の集積だった気がする.どこいっても何も通じないから,仕方なく地球の歩き方ロンリープラネットの後ろの方についている言葉の便利帳みたいなのを移動時間でしこしこ覚え,ボディーランゲージやらを駆使しながら現地の人とやりとりする,というのがだいたいの僕の旅行の記憶であった.それゆえに,外国で住むというのは,そういう苦労と一緒になってやってくるものだと思っていたのだが,スイスではこれとは全く違っていた.

スイスでは英語が通じるから,ついつい甘えて英語で話す.ただ,このままだと本当に深いところでスイスの人とは友達になれないかもなーという疑念が生じている.僕はグループワークの授業のパートナーがスイス人であることが多かったのだけど,彼らはとても流暢に(僕以上に流暢に)英語を話す.だけど,僕が議論からドロップアウトしたり,雑談が始まるとドイツ語になる.こうなるととたんに分からない.彼らはさっき英語で議論していたより心地良さそうだ.それを破ってまで,わざわざ英語にして俺を加える意味がどこにあるのだろうと自分でも考えてしまう.ドイツ語が話せないがゆえに,最後の一枚の布みたいなのがとても厚いなーと感じる機会がとても多い.その布の向こうには何があるのかは今のところ知る術もないのだけど.

そういうわけで,いつも使っているはずの英語って何だろうな,何の役に立ってるんだろうなってたまに思う.地図をよく見ると,英語を母語とする国は割に少ないことがわかる.その割に,リンガフランカとしての性格が強い.英語を話せば世界中の人とコミュニケーションがとれる…というと大上段に構え過ぎだろうけど,それに近いことを日本で思っていたことを記憶しているし,そう信じている人や吹聴している人が多かったように記憶している.だけど,これは,ごく控えめにいってただの思い上がりであることが最近になって感じられてきている.

この間モロッコに行って来た.モロッコでは,母語アラビア語だが,学校教育がフランス語で行われているらしく,広くフランス語が通じる.彼らにとっての第一外国語は,ちょうど日本人の英語がそうであるように,フランス語である.なので,街中の客引きも「お前フランス語話すか?」とフランス語で聞いて来たり,当たり前のように外国人だからという理由でフランス語で話しかけていたりする.英語で話しかけてきたとしても,こっちがちょっと複雑なことを言うと「ごめんごめん俺英語苦手なんだ,フランス語ならできるんだけどね」くらいのことを言われてがっくり肩を落とす.同行していた友人がフランス語を話す人だったので,もう最後は彼に任せっきりだった,ごめんね.

このことから分かったことは,英語を話せば…は半分くらいはただの幻想であるということだ.彼らの半分くらいは外国人を見かけたらフランス語で話しかければよいということを心底信じている.英語がちょっと話せる人でも,途中であきらめる.英語は,別にそれで何かを伝えたいわけでもなんでもなく,ただのツールにつきている.いろんなものから独立した,無色の言語であることが大半だなぁと感じた.

かといって,英語が裏にある文化と全くひっついてないわけでもないのだなぁ,と思う機会も多い.英語の勉強がてらアメリカのホームコメディを見ているのだけど,アメリカのスラングをいったり,アメリカ人しかわからないネタが所どころに落ちている.こうなると,もはやアメリカ語ともいいたくなるような会話がそこには繰り広げられている.しかし,これらを「あぁ面白いなぁ」と思って謙虚になって学び取ったところで,僕のスイスでの生活に還元したとしても通じず終わる.凝った言い回しをしたところで「えっ」ってなるのは目に見えているし,何より(当たり前だけど)スイスの文化はアメリカの文化ではない.アメリカ語はアメリカ語にすぎないし,アメリカとその言語を盲信したところで,それより広い世界では通じない.世界の人と話せるだのグローバルだのという触れ込みで学んだはずの英語が通じない様を見て,なんとも不思議な気分になっている.

今僕がおかれている状況は,居候の言語としての英語なんだろうと思う.英語圏でない国で,英語を使って生活しているということは,かなり傍若無人な振る舞いだなーと最近になって思う.この国の隅っこに間借りしながら英語を使って生活しているわけなんだけど,その代償は,結局のところスイス人とそれ以外の埋めにくい差となって出てくるように最近思う.そしてストレンジャーストレンジャーのままでしかいられない気分がしている.この埋められない差を前にして,外国で暮らしているってどういうことなんだっけか,と最近になってまた思うようになっていながら,今日も選択の余地がないかのように英語をしこしこ勉強している.

時間があって,もう少し英語がちゃんとできるようになったら,英語圏の国に旅行に行きたいなと海外旅行を人並みに繰り返した末に思うようになってきている.

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このブログからシリーズで書き出したスイス見聞録シリーズの続き.もう4年前の文章の続きを投稿しようとしている笑.というより,Evernoteをあさっていたら出てきて,自分で言うのもなんだけど,面白かったというか昔はものを真剣に考えていたんだなぁと感心してしまったので投稿笑.

このときは真剣に上にあげたことに悩んでいた.この後,結局この文章であげている英語圏への関わりが多くなった.イギリスに住むことになり,今はアメリカ企業で働きアメリカに行くことが多くなった.スイスにいたときにすこしかじったアメリカ文化風知識は,なんとなく活きているものの,今はいい意味でも悪い意味でも英語を使うことにいろんな意味で抵抗がなくなり,真剣に何か言語について考えることがなくなってしまっている.

この文章で論じていたような,文化のすれ違いやねじれを気にしなくてもいいのは,一つのアドバンテージというか,物事の面倒な部分を一つ飛ばしてくれていると思う.イギリスに住んでいたときは,きちんと彼らのネイティブ言語でいろいろ触れられたこともあって,一つ一つアクセントの違いや,文化などに触れることに上で感じたような歯痒さを感じなかったことに,スイスとの大きな違いを感じていた.一方で,最近はアメリカに行くことが多くなったものの,上のような着眼点を自分では何も思わなくなってしまっている.これはただ旅行者として眺めるだけだからなのかアメリカだからなのかは,わかっていない.ただ,真剣に考えなくなってしまったのは事実で,隙間に落ちた物はたくさんあるような気はしている,

夜の話

いくつか人恋しかったり、考えたり、思いが詰まったりする夜が人生にはあると思うが、こういう夜が来るたびに夜は不思議な時間だなと思う。
小学生の時には夜は大抵怖いものとして認識されて、九時に寝たりする。中高にもなると、なにかしらか、本だったり漫画だったり音楽だったりしたのだけど、それらに熱中して夜更かしをしていた。これはこれでいま人生の貴重な財産である。
大学生になると、いくつか夜の過ごし方に幅が出てきたように思う。魔の言葉「オール」に誘われ、コミュニティの人と飲み明かしたりもした。自分の将来について思い詰めることもあった。人間関係で悩むこともあった。布団の中にくるまってあーだこーだ考えるだけの時もあれば、いてもたってもいられず、自転車であちこち走り回ったりもした。また特に院生になってからは、研究で追い詰められたりもしていた。
社会人になっても、夜を過ごしてしまう理由はあまり変わらない。ただ、周りに友達と呼べる人が減ったからなのか、人恋しくなって、一人で誰かを求めて飲み屋にいくこともあった。
バーのマスターなど、夜に所属している人とそれなりに出会う。そういう人と話すのも楽しい。そこに集う人とも、儚い感じは刹那的な哀れさと楽しさが同居する。けれど、僕のような多くの人のうちの一人の場合、なんとなく危険な香りのする、夜をただひと齧りするだけであり、所属はしない。そのうち、過ごせていた夜も、体力的な理由であったり、その人を取り巻く事情も年齢を重ねることによりしがらみが多くなる方向へと変化し、夜から卒業していくように思う。
村上春樹のいうように、「夜は何か起こりそうで起こらないから過ごしても無駄だ」というのは至極名言であると信じている。僕の人生で、夜に夜的理由で物事が良い方向に向かったことは一度もないとおもう。夜に思いつめていたものに妙案が浮かんだりするのは、その人の知力、胆力、あるいは人間力がなせる技でしかなく、夜遅くまで耽っていたことそれ自体は別にどこにも導いてはくれない。
夜は時間だけを飲み込み、膨らんでいく。多くの場合、夜の出来事は切り上げる方が上手くいく。夜や夜に引きずり込んだ因子に囚われて抜けられないことの方が多い。夜に引き込まれてしまう程度のものを個人の中に抱えられるのは幸せなことであると気付くものの、夜が教えてくれることは、物事は解決するにせよそうでないにせよ、必ず終わるということのみである。
本来文章を書いた場合、ある程度おいてから見返すなどしたほうがよいものの、この文章にはそうしない。これは夜の思考の垂れ流しであるし、そのことに価値がある。
目が冴え切る思いとともに、夜がそろそろ終わりそうであることを認識しつつある。

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この文章は大切な人と喧嘩して、夜の街をひたすら歩いていた時にまとめた。
この文章を書いた頃とは状況も変わり、孤独感に苛まれ、バーで飲むことなどの、夜に所属する人との交流を久々にしてみたものの、刹那的な楽しさは多少あれど、夜はやはり本質的なところで救ってくれないと再び感じている。

喪失感の話

僕の祖父が12月に亡くなった.今のところこの事実をどうとらえていいのかよくわかっていない.ある程度大人になってから親族を亡くしたのは初めてで,どうとらえていいのかよくわかっていない.いくつか整理を目的として文章を綴る.

祖父は結構長生きしたと思う.84歳.日本人の平均寿命が80歳強であることを考えると,長く生きたんだと思う.秋に持病の肺をやられて,もともと体が弱っていたのもあって,先週の木曜日に亡くなってしまった.一回11月の初め頃にお見舞いに行ったときにはもう生きることに投げやりであった気がする.とはいっても,死の一番の原因は老衰だと思うし,話聞く限りでは,眠るように天寿を全うしたらしい.

祖父は死を明確に意識してかしてないのかわからないが,自分の葬式の準備を入念にしていたらしい.もともとケチなのもあってか,葬儀はとにかく簡素かつ安くしたがっていて,複数の業者に見積もりを取らせては家に呼びつけていたらしい.遺影に使う写真も自分で撮りに行っていたという(そして多分証明写真の機械で撮ったんだと思う.).遺産の分配も遺書を何度も書き直していたらしい.とは言っても,厳格な祖父というよりかは,ただただエクストリームな行動を突然するタイプで,納得がいかないと気が済まないタイプの祖父らしいといえば祖父らしい.

そういう祖父なので,逸話が絶えない.昨日も今日も在りし日の祖父の話がいろいろ出てくる.そうやってなんとなく故人の話をするのが,死を受け入れることなのかなとも思うし,故人を偲ぶということなのかなと思う.

お寺で葬儀をあげた.住職は叔父の高校の同級生の方で,よく顔もしっている方だった.住職がお経を唱えている間,この儀式は本当に祖父に向けられた物なのだろうかという疑念にかられた.そして,多分違うんだと思うに至った.死という漠然とした物に対して,具体的な説明を与え,手続きを見せたり手間をかけることによって,親しかった人の死を受容するプロセスなのかなと思うようになった.今はあまり死は身近にはないけれど,その昔に町中のどこでも葬儀をやっていたのなら,宗教も身近によりそって,他人の死を具体的にイメージし,受け入れられるようにすることによって,救っているのかなと思っている.僕は敬虔な仏教信者ではないにせよ,三途の川を渡るだのなんなのという話を聞くことに寄って,そういう世界の捉え方もありなのかなと思うようになっている.ただ,あの独特の鐘を鳴らす音などは,死をイメージして他の人が聞けばどことなく薄気味悪いんだとは思う.

残った身として,祖父の死を受け入れるわけなのだが,実際に受け入れているのか,忘れているのか区別がつかない.忘れることが悪いこととも思わないが,実際になんとなくもう祖父が他界してしまった事実が遠く感じてしまっていることに対して,罪悪感がある.一方で,残った身は現世で結構忙しいので,ずっと亡くなってしまった人の影みたいなのにとらわれ続けるわけにはいかない.前に「たまに思い出す」というのが死者とのつきあい方なのかなとある機会に思ったが,もう一度その結論にいたりつつある.


死は穢れなのかという疑問がわいた.周りには話題として一切触れられず,避けられている.職場で「忌引」というメールを出しただけで,「お休みします」と口で言うと「わかってるから」とそれ以上触れない.必要以上に休みも取れたので,多分相当に気を使われているのはすごくよくわかる.一方で,口にしてはならない,ということもあまりないとも思う.触れにくいのはわかる一方で,生きたときにどういう人であったかを時々でも思ってやることこそが,死を受け入れるプロセスでもあるし,故人に対してのいたわりでもあると思っている.受け入れるプロセスに,故人の在りし日の話や,今の心持ちなどの共有というのは必要で,今のところそこがまるっと抜け落ちているから,僕は文章を綴っているんだと思う.

幸いにもあと二日休みである.ぼんやりと物事を一つづつ整理して,受け入れて行きたい.

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祖父が亡くなって割とすぐに、自分の中の整理の意味もあってこの文章をまとめた。今日大学1年2年の時に住んでいた祖父が所有していたアパートのことをふっと思い出して、そこから祖父が嬉しそうに孫のためにあれこれアパートのリフォームしてたなぁと思い出すうちに、祖父のことを思い出してこみ上げてくるものがあった。ふっとこうやって整理した時の文章が出てきて、読み返してみると、たまに思い出すことが死者との付き合いなのかな、という言及などに救われる部分もあった。この一際個人的な文章が、もし誰かの救いになればと思って公開する。

埼玉県民の小さなアイデンティティの問題

以下の文章は,僕のアイデンティティ意識が揺らいでいるということをまとめた文章である.だけれども,僕の出生は特別にドラマチックでも何でもない.さらに特に結論や教訓めいたものはない.昔考えた「場所」の問題の続きでもあるかもしれない(文章が若い!)

僕は埼玉県に住んでいるが,埼玉県に帰属意識なるものを今現在一切感じていない.むしろ僕は埼玉県というところが大嫌いである.godforsakenという単語は埼玉県のためにある物だと結構本気で信じている.僕はそれゆえどこに帰属意識を感じればいいのかよくわからないでいる.

簡単に自分の出自について書いておく.僕は東京の世田谷区で産まれて,産まれて1年半くらいまでそこに住んでいた.祖父母が世田谷に住んでいて,アパートまで持っていて,そこを間借りして住んでいた.この頃の記憶はほぼなく,写真で見るばかりである.そののちに両親が埼玉県南部の大きな駅からバスに乗って20分くらいのところに家を買って引っ越した.小学校は公立の小学校に通い,中学から都内の中高一貫の学校に通い,大学も大学院も東京である.東京大学という名前からは東京にあることしか情報がない.大学入ってからは断続的に東京,チューリヒ,ロンドンへ引っ越しをした.大学には都合7年いてそろそろ修了予定だが,3年半はこれらの場所,3年半は埼玉県に住んでいた.

大学に入るまで「実家」というのは親の実家を意味していたように思っていたし,なんとなく親近感みたいなのを持っていたので,両親の実家について記述しておく.父親は新潟出身で,大学から東京に来た.父方の祖父は新潟で公務員をしていたらしい.母親は東京出身で,母方の祖父は山梨の地主出身であるが,次男であったために地元ではなく東京で暮らしている.新潟と東京には埼玉と違うアイデンティティみたいなのを感じていたが,今はその感情はもうない.(東京に関して言えば,別の考え方に置き換わったというのが正しい.)

自分のアイデンティティ意識は高校3年生のあるときまでは確実に「埼玉」であったように思う.「どこ出身なの?」って聞かれたら「埼玉」と答えていた.高校3年生のとき,割と多くの東大に合格するであろう高校生が経験することであると思うが,模擬試験に成績優秀者として名前が載った.今はどうか知らないが,一部の東大受験生用の模擬試験は,A判定(それも東大の定員の半分くらいに出たように記憶している)を取ると名前が載る.普通の模擬試験ではこの程度では名前は載らないような記憶している.その名前の横には,自分の高校の名前と「都道府県」という欄があった.自分の名前の横には,自分が通っていた高校の名前と,その横に「東京」と書いてあった.この都道府県というのは,自分の高校の所在が書かれたものである.これを見て「へぇ,自分は東京出身なんだ」と少なからずショックを受けた覚えがあるし,それ以来「東京出身」と名乗ることにしている.

それから大学に上がって,キャンパスも埼玉県から遠くなったので,大学1,2年の間は祖父の好意で自分が産まれたときに住んでいたアパートに住まわせてもらった.この時,「ここで産まれたんだなぁ」という意識をもって暮らしていたように思う.これはアイデンティティという観点から結構特殊な経験だったように思う.さらに,いろんな物事が10km圏内で完結していたので,そこそこ快適だったと覚えている.大学3年生のときに,埼玉県に戻った.キャンパスが実家に近くなって,経済的観点から特に一人暮らしを続けるメリットが見いだせなくなったからである.このとき,最初に感じたことは「不便だなぁ,生活は東京にあるのに,なんでわざわざ長い時間かけて行ったり帰ったりしなければならないんだろう?」と思った.そのとき思っていたことはこの記事が別の観点から説明している.この時以来,割と明確に埼玉県が嫌いになったように思う.自分の生活がある場所と家がある場所がねじれいている感じが気に食わなかった.

ここまでは,ただ「埼玉県が不便で気に食わないと思っている人」くらいで済むのだが,その後外国に引っ越してから,この生い立ちがアイデンティティの問題へと化けた気がする,僕が最初に住んでいたスイスという国にはいろんなアイデンティティの人が集まっていて,みんなそれときちんと向き合っていた,少なくとも傍目からはそう思う.ある程度のアイデンティティの複雑さを持ったほうが整理しやすいのか,「親は○○出身で,自分はどこそこ生まれ.で,自分はどこそこにアイデンティティを感じている」という人が多かった,そういう連中に「お前はどこから来たんだ?」とよく聞かれたことから「俺はどこから来たんだろうな?」とアイデンティティの問題をよく考えるようになった.

基本的には,認識としては今は自分は東京出身だと思っている.「お前はどこから来たんだ?」という質問に対しては,「日本」と答えているし「日本のどこだ」と聞かれたら「東京」と答えてはいたし,いまも答えている.小学校は埼玉県のに通っていたが,今はもう埼玉県土着の友人と呼べる人はほぼいない.中学・高校の友人で埼玉県に住んでいる人は「東京の友人だが偶然住んでいる県が同じ」くらいの認識である.それに比べて,だいたい物心ついてからの出来事は東京で起こっている.友人と呼べる人はほぼ東京で出会った人だし,僕に衝撃を与えた出来事は埼玉県ではなくて東京で起こっている.埼玉県はただ「偶然家がある」だけの場所である.

自分の認識としてのアイデンティティは「東京」にあるのだけど.自分の中に自分のアイデンティティを示す特有の物,例えばアクセントだとか目をつむって浮かべる光景だとかが何一つとしてないことに気付いた所から,アイデンティティの問題が始まっているように思う.よく僕の日本語は「アクセントに癖がない」と言われているし,僕自身も標準アクセントをしゃべっているという認識を持っている.地方出身の人が他の地方出身の人と話すときに標準語を使い,同じ地方の人と話すときには地元のアクセントを使っているという話を聞いて衝撃を受けた.僕にはそういうバイリンガル的な物事の扱いをする経験がない.また,何かしら目をつむって浮かべる光景もない.よく他の国の人と話すと「これはtypicalな光景だ」みたいな話をしているが,僕にはそういう意識が全くない.僕は物としてのアイデンティティを一切持っていない.

物としてのアイデンティティを一切持ってないとなると,一個アイデンティティの抽象度をあげた「国」というものと自分を結びつけるものもなくなることに気付いた.他の国の人に「お前の国には何があるんだ?」と聞かれても,何を述べていいのかわからなくなる.もちろん観光ガイドに載っているような答えはできる.富士山だとか,桜だとか,渋谷のスクランブル交差点だとか,新宿の大ガード下とか.でも,何一つとして自分の身を切ったものではないように思う.僕は概念としてこれらが日本っぽいことを知っているが,これらは僕とは一つ離れたところに存在しているように思う.

では僕が自分の認識が揺らいだときに,それでもなお日本出身だと確信を持てる要素はどこに存在しているのだろうか,という疑問が出てくる.未だにこれに答えられていない.日本語なんだろうか,それとも僕の行動様式なんだろうか.よくわかっていない.

この質問に答えることに失敗しているのは,僕に土着愛が足りないことが大きな原因のうちの一つだと思っている.埼玉県も東京も僕のことを救ってくれない.自分の子供にはきちんとアイデンティティの意識が育めるような環境を用意してやりたいと考えている.

この話は,人に伝えようとするたびにどうでもいいようにあしらわれる.親にさえあしらわれる.妹にさえ「どうでもいい」と言われる.ちなみに親も妹でさえも僕とは違うアイデンティティを多分持っているということに少し絶望した.それ以来きちんと考えをまとめていなかったが,とりあえずまとめてみた.もしこのようなことで同じような悩みを持っている人がいて,その人に届いたら幸せなことこの上ない.