小物界の小物、マットハンコックの終焉

オフィスで補佐官とキスをしていたことがソーシャルディスタンシングのルール違反としてイギリスの保健省の大臣マットハンコックが辞任した、という短いニュースが日本で流れているらしい。NHK産経新聞で確認した。ハンコックも補佐官も既婚者のダブル不倫ということもあり、日本ではそういう「大衆週刊誌的」消費のされかたをされているように思う。イギリスでもこのスクープの出どころはThe Sunという大衆週刊誌的な新聞である。しかし、このニュースはイギリス政治の政局的にずいぶん大きなニュースのように思う。日本のニュースで触れる必要もないものであるが、ちょっと背景について解説をしたいと思う。

TL; DR

  • ハンコックは最初から最後まで小物だった
  • ボリス政権は外圧によって崩壊するリスクは減ったように思うが、内閣内のパワーバランスが少し変わる
  • どちらかというと、イングランドのCOVID関係の制限は緩和の方向に向かう

背景 ドミニクカミングスの登場

どうしてもこの話を語るために必要な人間、ドミニクカミングスという人物について解説する。

労働党のブレア、ブラウンから政権を奪取した保守党のキャメロンは、長らく党内外で続くEU懐疑者を手懐けるため、またEUから有利な条件を引き出すために EU離脱を問う住民投票のアイディアを出す。2014年の欧州議会選でEU離脱派のイギリス独立党、最大野党の労働党に続き第三党に転落してしまう。これをうけてキャメロンは2015年の国政選挙でEU離脱を問う住民投票を約束する。メディアの予想に反して、国政選挙は保守党が勝ったため、キャメロンは住民投票を実施することにした。

キャメロン自身はEU残留派であり残留キャンペーンをリードしたが、EU離脱派にも大物政治家が集まった。離脱キャンペーンの中心人物には前ロンドン市長で現首相のボリスジョンソンもいた。EU離脱キャンペーンのキャンペーンディレクターには、政党にも属さないが、政府内のアドバイザー職をしていたドミニクカミングスが就任した。(詳しい人からするとここに離脱キャンペーンを率いたマイケルゴーブについても触れるべきかもしれないと思うかもしれないが、出すと話が複雑になりすぎるため一貫してこの記事ではゴーブの話はカットしている)

この住民投票EU離脱派が勝ち、イギリスはEU離脱に向けてかじを切ることになった。また、残留キャンペーンを主導したキャメロンは首相を辞任し、後任の首相を決める保守党総裁選が行われることになった。これに離脱派で最も知名度のあったボリスは出馬すると思われたが、離脱派の内紛により出馬を辞退し、メイが首相に選ばれた。しかしブレグジットの交渉は進まずメイ内閣が倒れ、住民投票から3年後ボリスが首相に就任した。この時「第二次世界大戦以降最も残酷な内閣改造」とBBCに言われた内閣改造を実施し、EU残留派キャンペーンにいた人物の多くや、保守党党首選でボリスを支持しなかった人物をほぼ全員内閣から追い出し、新しくボリス政権として運営していくことになった。これらの人事をほとんど全てボリスと共に決められるボリス政権の最高アドバイザーとしてカミングスは就任した。

小物界の小物、マットハンコックとは誰か?

ハンコックは言ってしまえば、出世欲が出過ぎで、勝ち馬に乗ろうとする姿勢が見えすぎており、権力に高揚感を示す小物である。

ハンコックは、オックスフォード卒の白人で「あるある」政治家である(日本の政治家は政治家の子息、というくらいあるある)。イングランド銀行エコノミストになったあと、2005年に野党時代の保守党の大蔵担当オズボーンのアドバイザーになり、そこから出世してオズボーンのスタッフのリーダーとなった。なお、オズボーンはキャメロン内閣で大蔵大臣を務めあげた。その後、自分で選挙に出て当選し、メイ内閣において弱小の大臣職を歴任し、保健大臣にまで上り詰めた。保健大臣というポジションは、大臣ポジションとしては超一流とは言わないまでも一流ポジションである。4大閣僚と言われる首相、大蔵大臣、内務大臣、外務大臣に次ぐポジション群だと考えられる。日本の厚労大臣よりはひょっとしたら出世の芽があるかもしれない。前任の保健大臣はメイ政権で外務大臣に昇任した。(なお、この人は日本語が堪能である)

ハンコックはEU残留派だったものの、保守党党首選でボリスを支持したため、前メイ内閣の後期に務めていた保健大臣を続投することになった。なお、この時の保守党党首選に出たが支持者がうまく集まらず、党首選を降りるという小物エピソードを持つ。

順調に「出世」していたハンコックだが、COVIDを受けて、保健に必要以上に注目が集った。ハンコックはこの高揚感を隠せないまま、小物感を丸出しにしてCOVIDの対応に乗り出す。

小物感を隠せないエピソードとしては

  • ロックダウン直後にBBCに出て「多くの人がルールを破るなら、我々は外に出ての運動すら禁止せざるを得ない」と高揚感を伴って言い出す
  • 20年4月、検査のターゲットについて、自分がぶち上げた目標について曖昧な表現をして、達成したかのように見せかける
  • 20年4月、老人ホームの死者について曖昧な報告をして自分の保身に走る
  • 低賃金が問題になっていたケアワーカーも認知されるべきだとバッジを作ったと高らかに発表する

などなど、枚挙にいとまがない。ロックダウン直後、毎日やっていた記者会見では、ハンコックが出てくるたびにTwitterではpathological liar(病的な嘘つき)というコメントが並んでいた。イギリスの国民にも、こういう保身をする態度は見透かされていたのだと思う。

また、今回の件も含めて汚職的なものもあった。

などなど。ただしイギリス人のこの手の人たちの間では、政治家に限らず「自分は特権階級にあるから何をしてもよい」という意識があるように見受けられる。たとえば、ロックダウンを進言したインペリアルの疫学教授はロックダウン中に不倫相手に会いに行き、スカイニュースというイギリスと大手メディアの政治部長は、舌鋒鋭く政治家に切り込んでおきながら自身はパーティに参加していた。そのため、これらのエピソードはイギリスの立場が高い人の特徴を表しているとは思うが、特別ハンコックを特徴付けるとはあまり思わない。

一方でハンコックはCOVID関連の制限で言えばどちらかというと慎重派の高学歴リベラルが好みそうなスタンスである。保健関係の制限はなるべく強い方がいいと思っていたり、ロックダウンは早めのほうがいいと思っている節もある。たとえば、自己隔離をしなければならなくなった人全員に500ポンドを出そうとしていた(大蔵大臣に蹴られたが)。とはいえ、そういう層から人気があるわけではない。

権力闘争の成れの果て カミングスの没落からNuclear Dom

話はハンコックと関係のないところで進む。首相官邸で権力をふるっていたカミングスだったが、20年11月突然翳りが見える。きっかけは、11月に官邸の宣伝部の部長であったリーケインが辞任した。この人は、離脱キャンペーンの主要な人物の一人で、カミングスと密な人であった上に、官邸の統括をしないかという昇進のオファーをボリスからされていた。しかし、これに反対したのが、当時ボリスのフィアンセであったキャリージョンソン(née シモンズ)であった。キャリーシモンズは保守党のPR統括だったことが縁でボリスと結婚した。そのシモンズが、この官邸宣伝部長のコミュニケーションのしかたには問題があると、他の保守党の国会議員を巻き込んでキャンペーンをした。ボリスはこれを聞き入れ、この宣伝部の部長は官邸を去った。このキャリーシモンズとカミングスの官邸内での内紛はこれにおさまらなかった。もちろんシモンズ派であるボリスとの「怒鳴り合い」の口論の末、カミングスは翌週官邸を去った

こうして、有権者の投票によって選ばれたわけではない人物たちの権力闘争は終わっていった。カミングスはボリスと蜜月だったこともあり、国民からの評判もさることながら、国会議員、あるいは大臣からの評判もあまりよくなかった。このカミングスが官邸を去ったニュースには、歓迎ムードがあったように思う。

しばらくカミングスは沈黙していたが、21年5月に突然公の場に姿を表し、大量の暴露ネタを自身のブログツイッターにポストしだす。その暴露ネタの攻撃対象は、ボリスと、COVIDの不人気の象徴であったハンコックだった。特にハンコックの政治の不手際のような物を指摘していた。また、カミングスとボリスの間のwhatsappのスクリーンショットも公開していた。その中には、ボリスがハンコックのことを"Totally fxxcking hopless"と呼んだことや、"またハンコックか!ハンコックをやめさせること以外考えられない"と送っていたというスクリーンショットも含まれていた。これらの暴露スレッドにぶら下がっているツイートは100個を超える。これらの一連の動きは、Metroに"nuclear dom"とまで呼ばれた。カミングスは国会の委員会で証言まで行い、これをうけてハンコックまで駆り出された。

これらのカミングスの狙いは、国民に不人気のハンコックの失脚を自分の手で行うことだったのだと思う。さらにはボリスの失脚も狙っていたのかもしれない。しかし、BBCも分析するように、カミングスがハンコックを攻撃すればするほど、ボリスはそれを受け入れるとカミングスに屈したことになってしまうため、いかに暴露されようともハンコックをやめさせることはできなかったようにうつる。かくして、ハンコックはボリスに貸しも作りしばらく安泰のように思われた。

その後 敗者の小物ハンコックとカミングス、完全勝利のシモンズ

そうした文脈でハンコックのスキャンダルが出た。でもハンコックは辞めることはないと皆思っていた。上に書いたように安泰であった上に、そもそも、ボリスは身内のスキャンダルにとても甘い。カミングスもロックダウン中に地元ダラムまでドライブしに帰っており、ルールを破っていたことがすっぱ抜かれた。これはカミングスの国民からの不人気も合間って、ものすごく叩かれた。また、これもまた国民から不人気の内務大臣が、官僚のいじめをしていたと独立委員会の調査で結論づけられたが、これを受けてもボリスは辞任を求めなかった。なのでそもそもハンコックのスキャンダルは、ボリス政権からすると辞めるほどのものではなかった。また、日本と違い、不倫があったからといって騒がれるように国でもない(なので、叩かれていたポイントも「ソーシャルディスタンシングのルールを守ってない」ということになっている。ルールを守っていないことは叩かれる)。

でもハンコックは辞任した。ボリスは高笑いが止まらないと思う。政権のしてきた公衆衛生上の政策の失敗(PPEの確保や接触者追跡システムの構築失敗)はハンコックのせいにできるし、成功したもの(ワクチンの展開)は自分の手柄にできる。これはすでに始まっている。毎週ある首相討論では毎週任意の質問に「政府はワクチンの展開に成功した」で答えているし、失敗した接触者追跡システムはトーンを落としながら「確かに前作ったものは問題がある、再構築する」と述べている。さらにはカミングスに叩かれるポイントも勝手にいなくなってくれたので、カミングスはもうボリスを攻撃する手段を失っている。もちろんもっと暴露ネタはあるとは思うものの、国民がCOVIDに興味があったことを考えるとハンコックを失ったのは一番のタマを失った感じがある。その意味でしばらくカミングスのリスクにさらされてたボリスは、当分安泰だろう。逆に、ハンコックはワクチンの手柄は取り上げられて、最悪のタイミングで辞めたので政治家としてこれ以上出世していくのは厳しいように思う。

ハンコックはなぜ辞めたのか。言ってしまえば「仕事より女を取った」感じがある。ハンコックは現在の奥さんを離れ、不倫相手と暮らすそうだ。不倫相手は大学の同級生である。この記事に不倫の馴れ初めがまとまっているが、「高嶺の花である不倫相手とおとなしかったハンコックは、大学の時に微妙に近くロマンスも少しあったかもしれないものが、大人になり再会し…」という話がまとまっている。事実は小説よりも奇なり、という感じが読んでいてとてもする。しかし、辞める必要のない環境の中、大臣職を離れて不倫相手を取ったとて、ハンコックにどれだけの価値が残っているのかは不明である。政治家としてこれ以上のし上がっていくのはしばらくは厳しいようにうつる。政治家としてはやめたほうがいいとは思うものの、職業人としては、辞めたら政治生命が絶たれる一方でやり過ごせる環境だったのだから辞めずにほとぼりが冷めるまで待てばいいのに、と思わなくもない。このことから、個人的感想だが、最後まで小物だったように思う。

カミングスは思わぬ形でハンコックに辞任されたため、注目を急に失った。いまだに暴露ネタをしているが、あまり注目は集まらない。ハンコックも自分の成果で辞めたわけでもないし、多分本丸のボリスにカミングス自身の手では辿り着かないだろう。

保健大臣の後任は、ボリス政権で最初に大蔵大臣を務めたジャヴィドになった。ジャヴィドは、比較的政治の世界で重鎮であり、それはBBCに「重量級」とまで書かれる。ボリスは党内権力のない人物を閣僚に任命したうえで好き勝手やっていた節があるので、メディアからもジャヴィドが戻ってきたことは肯定的に報じられている。ジャヴィドは一度、実質的にボリスとカミングスのタッグから大蔵大臣のポストを追い出されている。そして、自身が政治の前に20年程度キャリアを築いてきたシティのJPモルガンのアドバイザーの職を国会議員と兼任をはじめて、政治への興味が薄れているように映っていた。

なぜジャヴィドが戻ってきたのか?それは、キャリーシモンズの信頼が厚いから、と一部言われている。こうして、EU離脱キャンペーンの仲間たちは消え、キャリーシモンズが権力闘争に勝った。首相官邸の権力はシモンズが「重量級」を迎えて握っている。こうして内閣内のパワーバランスも変わり、これからはかつてのカミングス-ボリスの政策決定プロセスとはタイプが違ったものが出てくることが決定的になったように思う。

イングランドのCOVIDの政策はハンコックからジャヴィドになったことによって変わるのか。しばらくは保健に対して保守的な政策は取られないと思う。ジャヴィドは、「いつまでもロックダウンはできない」と就任後初めての国会でのスピーチで述べた。保健のステークホルダーを守るタイプであったハンコックとはタイプが違う(もちろん、ハンコックの意見はあまり考慮はされなかったのでそれがどれだけの意味をもつかというところについては疑問符が付く)。ロックダウンに懐疑的な保守党の議員から歓迎された。保健大臣がこの論をはるということは、保健政策に対して保守的な方向に議論はもう向かない。と、書いていたらかなりラディカルなリオープニングがボリスから発表されていたが、今後このようなリオープニングの方向に振ったものがしばらく出続けると予想される。

正しく歳をとる話

最近新型コロナウイルスの関係で、いろいろ考える時間がある。そして人の付き合いもほとんどない。ので、ちょっとした人からの連絡に、過敏に反応してしまう。そしてとても考え込んでしまう。また、なんかひとつ追い込まれてしまった。この追い込まれてしまった点を整理したい。

自分は正しく歳をとっているのだろうか。正しい歳のとりかたとはなんなのだろうか。一言で言えばこういう命題が提起された。いま僕が住んでいるイギリスは疫病の影響でいわゆる都市封鎖というのを行っていて、外出できない。その中で、流行の疫病よりもなによりも、この形のない恐怖が都市封鎖が始まる前後3週間自分の頭を支配していた。

ある人を反面教師としてこの話は始まる。この人がどういう人かというのはあまり本題には関係ない。というかこれはこの人の話ではなくてこの人から覗いたもう少し一般的な話である。

どこにでもこういう例はあると思うが、知り合ってまもない割には常に一歩積極的過ぎるきらいのあるやりとりが多いタイプの人の話である。さらに加えると、ステレオタイプには「oo歳にもなって独身」という特徴がある。oo歳は余計なお世話だが先進的進歩的に見てもまあまあな歳である。この基準からすると僕はまだその歳ではない。自分がコミュニケーションにおいて常識と信じる物が世間一般の方々が普通に信じるものかどうかについて自信がないし、合理的な推論にも自信がない。ただ、その合理的常識的な仮定と推論とは、伝えたいことがあって、その受け手として他人がいて、というやり取りの中で、受け手を想定したもののことである。その合理的常識的だと思われる範囲で仮定とそこからの推論をいくつかおいても、こういうコミュニケーションにはならないだろうと思わざるをえないことが多かった。一歩近いどころか、そういうシグナルを出してないにも関わらず合理的な仮定と推論をすると何歩か近かった。だけど、この人とは知り合ったばかりだし言ったところで何か得をすることも薄かったようにも思えたので特に何も言わなかった。

ただ、この人の距離の取れなさに、自分の未来がひょっとしたら重なるかもしれないという恐怖心が沸いた。この人とのやりとりを通してこの人は他人と正しく付き合ってきたのだろうか、という疑念がわいてしまった。もちろん特に明確なフィードバックをしなかった自分も悪いとは思うが、僕が考える範囲で合理的だと思われる仮定をもとにコミュニケーションを取ろうと思うとこうはならなかったと思う。そして僕の考える「合理的な範囲」は、他人と関わることによって培われてきたものだと思う。それは、表面的でない、友人や、あるいは恋人のような、表面的でない深い付き合いをある種考察を交えて真剣にしたかどうかだと思う。そして自分は、そこからoo歳までの間にひょっとしたらここまで深刻にいろいろなものを失ってしまうかもしれないと思ってしまった。

自分がこれが上手だとは思わない。僕も一人でいることが好きかどうかはわからないが別にそこまで苦ではない。他人とのコミュニケーションは疎にしておくほうがいいと思っている側面もある。他人との関わりの中には考えないとできないことも多いし、それがゆえにチョンボもある。そしてたまにそれが誰かの神経に触ってしまうこともある。暗に離れていく人もいれば、陽にきちんとフィードバックをくれる人もいる(後者の人々に僕は深く感謝しなければならない)。ただ、今回話題に上げている人の場合は、そういう努力がなされた痕跡が全く感じられなかった。

何がこの人をこうさせたのだろうと、とても興味がわいた。それでいろいろ観察したら、いくつかの特徴が見受けられた。特徴としては 1) あまり周りに友人や恋人がいなさそう 2) 思考の中に自己批判がなさそう 3) そしてある方向にプッシュする馬力がある くらいが認められた痕跡である。悪口を言いたいわけではないので詳しくなぜこう思ったかなどとあげつらうことはしない。しかも、この人は別にいい人である。ただ僕を対象としたこの人からみた「他人」と想定される物の距離がどのような合理的な仮定をおいてもこうはならないと思っただけである。

この中で1)と2)のポイントは、他者が自分の思考の射程に入ると改善されるが、生き方として3)を選ぶ場合、他者が基本的には邪魔なものとなってしまう。多分そうやってありとあらゆるものを乗り切ってきたのだろう。仕事には、もっと広く人生にはいろんな困難がある。人の助けを借りたりしながら乗り切ったりもする。その中で他人と関わることはこういうことなんだなと思うこともあると思う。だけど、これを馬力だけで乗り切る選択が多い場合、他人と関わるのは本質的には少ない。こういう人の場合、人にアドバイスを求めて僕にコンタクトしてきたように、一見1)があるように思えてしまう。だけど、それは好意的にいってもまやかしで、自分の中の視点でいえば確かにこの人をここで使えばいい、というふうに悪くいうと駒のように思うのだろうが、他者目線ではというふうにスイッチできてないことが多いのだと思う。自分の人生は自分が主人公であるが、社会はみんな自分が主人公として生きている。後者の視点がごくごく自然に落ちてしまっているように思う。

日本は幸か不幸か同調圧力が強くそこでフィードバックがかかることもあるが、それをすり抜けると純度高くヤバさが増す。oo歳にもなって結婚してないとは…と言われることもある。この主張に腹を立てることもあるが、同時にだんだん周りがいってくれなくなることが多いのだと思う。そして、自分には正しいフィードバックがかからずに、3)の方向を加速させ、1)や2)を欠き歳を取っていく…そして気づいた時には手遅れで元に戻れない。

これが気付かせることは、思ったより簡単にこの人のような「距離の取れなさ」の再現が取れることである。少しだけ距離の取り方がわからないまま、何かの間違いで一人をちょっとしてしまうと、簡単にこのフィードバックループに入る。その意味で僕はこの人のことを悪くいうつもりはない。人は簡単に、いくつかの仮定を満たしてしまうと、ボタンを掛け違えたまま服を着続けて戻れなくなる。oo歳になると、いつの間にかそのまま外を歩いてしまっているかもしれない。

自分は正しく歳を取っているのだろうか。自分は別に近すぎるということはあまりないと思うのだけど、逆に僕は比較的昔から軽度にシャットアウトしてしまうタイプの人間である。何か締め切りがある前は用事をいれないのはざらだった。東京にいた時は1ヶ月飲み会に行かないということも稀ではなかった(最後の二年はイギリスに行こうと思い立って忙しかった)。そして、実際にイギリスにきたら、今度は自分の碇を失い、コミュニティを失い、孤独と人の射程について真剣に考えている。今自分には正しいフィードバックというものがかかっているのだろうか。僕は3)のあまり1)や2)を失ってないだろうか。2)は自己訓練である程度どうにかなるものの、1)はどうにもならない。そして他人との射程を失い、他人の視点を失い、他人を求めても孤独であり続けるのかもしれないし、あるいはそれすら気付かずに笑われ続けるのかもしれない。正しい距離が取れてないという点においては、同じ穴のムジナである。もちろん近すぎるほうは近づかれるとある種のコストが発生するので腹立たしいけれど。遠い方だってもっと近ければいいのにと思ってコストが発生するからこれもあまり関係ないのかな?

人は社会的な生き物である。家族をなし、社会をなす。そのある種の練習の場としての身近な人を自分は得ていないまま馬力で物事を乗り切ろうとしていることにある種の躊躇を覚えてしまうようにもなっている。躊躇するため生産性にも寄与しない。独りのやりすぎは、取り返しが付かなくなりうる。ロックダウンの後半を比較的穏やかに乗り切っているということそれ自体が、実はよくないサインなのかもしれない。正しく歳を取っていない可能性が高い。何ができるんだろうか。つい先日、似たようなことが深夜ラジオでも起こった。あれも僕には「正しく歳を取れていない」の例に思えてしまう。「50にもなって風俗の話をしているのは幽霊の話みたいなもの」というのは、「oo歳にもなって距離が取れてないのは幽霊の話みたいなもの」と言ってもそんなに大差はない。

そろそろロックダウンが開けるかもしれない。ロックダウンに向けた準備より、実は開けることへの準備の方が大切なのかもしれない。

一人の時間の値段の話

自分が多大なコストだと勝手に信じているものを払って手に入れたと思われるものが暴落したという愚痴です。

今は無職をしている。僕はこの事実自体にとても満足している。うだつの上がらない会社員をしていたが、そのうちうだつがあがらないどころか全く先行きが見えなくなってしまった。時間をとって物事を考えたくて、会社員をやめてまとまった時間を確保した。とはいえドロップアウトだし、特に気負うものもないほうがいいので、無職という肩書きを貫いている。いやどの意味合いにおいても無職でしかないのだけど、元ooより無職の方がとてもしっくりくる(ooに入りうるもの正しく選ぶと確かに少しセクシーになるのはそうだと思うし、他人にはたまにそういう紹介をされてしまうので、これを予防する技術が最近求められる)。そして、自分に対する責任が自分に全部戻ってきたので、その点には満足している。もちろん、もっとできていただろうとかそういう自分のかつて勝手に思っていた期待と自分の現在地のギャップにはよく萎える。

会社員をしていたとき少し将来に悩み出してから、自分一人で考える時間が欲しくて、とにかくまとまった時間を確保するためにある時点から人との接触を極端に減らしてしまった。家でぼんやり考え事をしたいという名目で、とにかくまとまった時間がないと意味がないと思っていた。まとまった時間を正しく使えたかと言われると、イギリスにいく準備に溶けた分は実際にイギリスに来たので報われたと思うが、それ以外の割合が多いのは否定できない。ゲームにも溶けたが、まあゲームはゲームから学んだことも多かったのでそんなに自分の中で罪悪感はない。何に消えたのかよくわからないけれど、ただあの時は自我を保つのが必死だった。ただ、うだつが上がらないこと以外は結構楽しかったように思う。

この経験から、僕は一人が好きなんだと思っていた。イギリスにいっても、かつて海外にいった時気負っていた「外人の友達をつくらないと!」と思わなくてもやっていけるだろう、そう思っていた。

これは間違っていたとヨーロッパの長くて厳しい冬を経て思った。いろんな前提が自分から抜け落ちていた。前提というものは、まず、自分の生活が保証されていないし、どこにも根付いていない。僕は日本に身分が真にない。そして、イギリスにもほとんどない。僕の生活はいろんな意味で一寸先は闇である。そして、自分の育ったところで一人をするのと、異国の地で一人をするのはだいぶ違う。東京で一人をしていたときはいつでも一人でない可能性にアクセス可能だったが、今は本当に独りである。しかも、日本に紐づいてすらない。その前提から僕の全ての生活が始まる。家族がいたり、日本からの紐付きだったりする人と身分が違うので、思うことも違う。

少し話は逸れるが、これはいい側面もある。なんでも日本と外国の比較で見ることがなくなった。そして、「日本」から始まるあれこれの肩の荷が降りた。もう国籍なんて聞かれないと言わないレベルになっているし、国の話なんて滅多にしない。日本に身分が紐づいている人は、内向きになってしまったり、あるいは過度な日本バッシングや日本人と自分は違うというような意見をもったりする。後者の人には特に残酷だが、正直な話前者と後者は五十歩百歩で、日本との距離感が上手くとれていないという点でほとんど何もかわらない。この手の人の中で、上手に距離を取れている人をついぞ見たことがない。そういう社会を見る目がクリティカルな職業についている人ですら全滅である。

話を戻す。冬を経て、前述のような理由で一人はダメで、これこそが諸悪の根源なんだと思った。ただ、この反省も違った。僕は、ノイズがダメだったんだと最近よくわかった。案外一人は自分が冬に見限ったよりは大丈夫だったと思っているし、なんならだいぶ強い方だとまた思い直すに至った。ただし、とはいえこれが強いことは何の自慢にもならないし、メンタルの安定のファクターにあまりよく寄与しない。ただ、割り込みのノイズが苦手で、最も対処しないといけないものなんだと。これはロックダウンの最初期、自分の周りから物が減っていった中で人間関係のいざこざが自分の心をとても揺さぶった時に気づいた。揺さぶられ方は不愉快だったが、このことに気付かせてくれた点には感謝をしている。上手く対処してからはずいぶん落ち着いていい時間を多分過ごしている。振り返ると、仕事もノイズにとても弱かった。自分がキャリアに悩んで仕事の中でこういうふうにしたいと思ったこととそうでないがやらなければならないことがあった時に、結構自我を保つのが大変だったし、結局僕が過ごしていた一人の時間はそれをバランスする時間だったように思う。冬は、何か上手く行かないことがあって、その時に求める人がいなかったのがメンタルが結構大変だった理由のように思う(もちろん上手く行かないことを発火した直接・間接的な要因は一人であったことでもある)。こうして、ノイズが今のところ僕が苦手だったものとして腑に落ちている(もちろんまた解釈が変わるかもしれない)し、このようにノイズが少ない環境になって、ノイズが苦手だということにも気づいて、回り回って満足している。

まあまあ長くなってしまったが、ここまでが自分が多大なコストを払った話。

問題は、新型コロナウイルスの影響で、みんなが僕が東京で過ごしていたいい時間を過ごしているということである。それはイギリスにいる人もそうだし、日本にいる人もそう。僕がこうやって一年二年のたうちまわってようやく落ち着いた頃の時間を、みんな過ごしている。僕が頑張って手に入れてきたものの価値が暴落し、どちらかといえばみんなに平等に与えられるというか強制されるものになった。とてもうらやましい。うらやましい以上のコメントはない。ただ言えることは、それで「よし自分は孤独が大丈夫」と思うな、ということである。あなたの大丈夫は、種々の係累に支えられていることがほとんどである。家族、仕事、コミュニティなどなど、あなたを陰に陽に支えているものはたくさんある。これらを無視して「一人が得意」というのは有り体にいえばおこがましい話かもしれない。そんな説教より、これをきっかけに変に自信をつけて無職を始めると、僕が長々と上に書いたような経緯を経ることになるし、運が悪いと死ぬ。どうか、一人が大丈夫、という方向に自信をつけないでほしい。ここちよい一人を楽しむ程度にしておいてほしい。僕は、その方向は間違っていたと今本当に反省している。そしてその報いを、心地よかった一人の時間の価値の暴落という形で受けている。

  

   

 

 

死の淵より

Sorry to be so dramaticとはタイトルのことなのだけど、二日続けて胃痙攣というものになった。もう立てないくらいに痛くなった。1日目はおさまったのでそのまま放置してたんだけど、2日目なったときは連続でなるのはやばげでは、と思って緊急外来にいった。緊急外来というのは、24時間walk-inで緊急度の高い症状に対して医療を受けられるという公立医療(NHS)のサービスである。救急車で行っても多分同じキューにいれられると思う、多分ね。

まず受付でトリアージされて、次に看護師さんによって問診がある。ここで完全に優先度が決まって待合室で待つ。多くの場合は優先順位が下げられるため、キューの後ろに置かれるためかなり待つことになる。僕が行ったところは、最初の受付からdischargeまで四時間を目指しているらしく、結局正味四時間かかった。僕の症状は波打つような胃の痛みが主で、緊急外来にきた時にはちょっとおさまりつつあったので、いつくるか不安にかられつつ、待合室で三時間、処置で一時間くらいかかった。

この待合室がすごいところだったと思う。待合室にいた三時間の間に、セキュリティに連れられる頭がおかしくなってしまった人が二人いた。泡を吹いて倒れてしまった人が二人いた。男とセックスして血が止まらずHIVかもとパニックになっている男がいた。とはいえ大半は骨折とかで、なんというか普通の待合室だし、みんな意識がきちんとある上に付き添いがかならずついていたため、普通の心持ちなら「こんなもんか」程度であったと思う。だけど、その付き添いがみんな付いている状況とのコントラストや、自分もこういうところに来た身ゆえの不安で待合室で自然と泣いてしまった。

処置の結果原因はわからなかったので鎮痛剤をいただいて帰った程度の症状ではあったのだけど(一応追加検査を週明けする)、かなり死が自分のそばにある経験で、いろいろ考えてしまったのでつらつらまとめておく。

■自分が死んで悲しむ人がいるか、あるいは頼れる人がいるか

これについては深刻に考えた。ここに書いた通り自分はいろんな決断を一人でしてきたのだけど(もちろん友人たちのたくさんの助けがあった)、その分いろんな係累をほどいてしまった気がする。本当に真剣に、待合室で、自分が死んだ時のことを思って孤独をもとめて最後荒野に入って死ぬ映画Into the Wildの毒草を食してしまうシーンが脳みそによぎった。まあきっと親は悲しんでくれるだろう。さて他には…?必要以上に孤独をしすぎていたんだなと気づいても少なくともこの緊急外来までは手遅れだった。

日本に生活の基盤があったので、日本の友人たちはなんかいろいろしてくれるんだと思うのだけど、ロンドンの友達はまだ浅い関係が多いので、何かあったときのヘルプとなるととても大変である。そういう関係ってどうやって作ってたんだっけかな?って思う程度に実はひょっとしたら友達を作るというところから遠ざかってるのかもなとも思っている。

家に帰って親に電話した。親に自分の話をするのは久しぶりだったように思う。簡単にまあ元気でないけれど生きてる、という説明をした。あと、自分に万が一のことがあったときの連絡などをいろいろアレンジした。日本の友達にも電話した。日本の友達にはなんかあったときの親のサポートをお願いするだけといえばそうなので、すこしロンドンの人に頼むより頼みやすい。にしてもまあまあなことをお願いしているのは重々承知しているのだけど、死んでからなお一人というのはとても怖かったのでしかたなしにお願いせざるを得なかった。

別に大したことは人生でしてないのだけど、僕のことは誰が知ってくれてるんだろう、とも思う。最近、自分の話はあまり包括的にはしないという気づきがあったのだけど、人々はいろんなことを言ってくれると思うけれども(悪い印象もいい印象も、あるいは印象がなかったとも)、誰が俺のことを包括的に知ってくれてるんだろう…今死んだら全て失われるんだなとも思った。僕は何を大事にしてあまり自分の話をしないのか、しなければ無いものになるんだなとも感じる。別にそれでどうなるんだと言われれば自分以外気にしないのはそうだと思うのだけど。

■リスクに対する許容を持っておく

風邪を引いたり、胃痙攣になることに対して多分対策のしようがあるんだと思うが、それに時間そしてそれ以上に神経を使いすぎても完全なる無駄である。それより、最低現の対処以上のことは、この手のことは確率的挙動をしていて、自分の身には確率的に起こることとして許容して、起こったら何をするのか、あるいはできるだけ怒った後にダメージを下げるプロトコル(保険とか連絡とか)ということを考えた方がいいという発想に至った。自分が予定がガチガチだった場合、ちょっとした胃痙攣で何もかもがうまくいかなくなってしまう。今回はたまたま緊急外来なるものがあるということを知っていて、たまたま予定がなかったから別に僕がぶっ倒れても問題なかったが、これが自分が不必要にギアアップしているときに起こっていたら結構やばかったと思う。ギアアップする対象と、時間は、本当に選んだ方がよくて、この時はありとあらゆるリスク許容度が下がる。けど、人生にはそういう時間が必要なのは他方でそうなので、そういうものがくるまでは120%のギアアップはしないほうがよいのかもしれない。そして、普段もっている余剰な時間は、少しだけ他人のリスクを下げることにつかってもいいのかなとも思うようになった。

■Story about death

Steve Jobsスタンフォードでの祝辞のスピーチはとても有名なものだと思うが、そのうちの3つ目が死に関する話だった。あまりにも有名なので、ここで内容がどういうものかと要約するのは避けるが、僕はこの話をあまりわかっていなかったんだなと思う。もちろん時間は無駄にはできないし、他人のいうことより自分の心の声を追えというのはお題目として理解できるのだけど、"Because almost everything — all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure — these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose."これは本当に脳みそによぎった。無職ながらに30年生きてしまったので、何か失うものがある気がしてしまって踏み出せていないあれこれが脳みそによぎった。俺は本当にあれをしなくて後悔しないのか…本当に自分がやらないといけないことってなんなんだろうな…とよぎってしまう。

■まだ死にたくない

たくさんのいろんなエクストリームな状況を見かけて、心のそこからそう思った。もう理屈でもないし、つくすべき言葉もでてこない。ただ、死にたくないと心のそこから思った。まだその準備はできていない。

薄っぺらい話かもしれない。薄っぺらいと思う。だけど、なんというか、本当に追い詰められた特殊な経験だったように思うので、記録しておく。

Into the Wild的10年

今から約10年前、一つの映画を見た。Into the Wild. クリスという若者が、アラスカを目指して旅をする映画である。ロードムービーの一種なんだろう。そして、10年前、映画を見た感想はここにまとめている。

まず、10年前の感想を見る前に、何でこの映画を知ったかは覚えていないが、10年前にはこの映画を見る経緯というものがあった。この時、主に大学二年生の時は、いろんな人間関係に悩んでいた。あるものはただただ自分の望まない係累として、あるものはあるべき関係が見えずにわからなくなっているものとして、あるものは失ってしまったものとして、あるものはもう少し仲良くなりたいが踏み出せないものとして。とにかく人間関係やそれにまつわる付随して起こる悩みが多かった。そして、さらに社交イベントがあって新たな人間関係が築かれていった。そして一人暮らしの家に帰って天井を眺めて、気が向いたらチャリンコに乗って深夜徘徊していた。要するに疲れていた。そして、この係累をほどいたら、と孤独やら何やらについてなんとなく考えるようになった。確かそんな経緯で10年前にこれを見と記憶している。そして、これを見た後に、紀伊半島をチャリンコで一周したりしてみた。案外一人でもいけるのかな、というちょっとした手応えを紀伊半島で感じた。この映画を見て、感想にもある通り、「強く生きる」というのをなんとなく実践したかった。

あれから10年間、まあまあこのInto the Wildにimplicitに影響を受けて生活してきたんだなとふと思う。これ以降、比較的よくバックパックを抱え、限界に挑戦するような一人の旅にもよく出るようになった。旅先の人と仲良くして、旅中にはあまり自分の知っている人とはコンタクトを取らないようにもしていた。そうしていくうちに、大学二年生のときにあれだけ頑張っていた人付き合いで知り合った人の大部分とは現実的なバックグラウンドも離れてしまっていってしまって疎遠になっていった。けれど、それから先、もちろん前も、友達にはとても自分には十分すぎるほどに恵まれていた。ちょうどクリスがいろんな優しい人たちと出会うように。一方で、誰かにちゃんと心を開くような関係については大学二年生のときほどは夢中になれなかったことが多かったし、何より自分が何を思ってるかについても、相手が何を思ってるかについても、全くわからなかった。これがトリガーなのかはわからないが、自分の思いを素直にぶつけるということが何か恥ずかしくなってしまった前にもまして難しくなり、自分の思いを上手に隠す術がとにかく身についていった。社交イベントにもあまり行かなくなったけれど、いったら最後とにかく自分の立ち位置をフレキシブルに変えて場を盛り上げることに執着するようになった。

こうして、自分はなんとなく壁を作り、もちろん友達に助けられてきたが、なんとなく自分を孤独だとラベルづけをしていた。これは、決断するときの真横には別に誰もいない、そしてその影響は自分以外には大きくないという意味で孤独であったと噛み締めている。それこそ自分にはもったい無いような友人にいろいろ助けてもらった。けれど、いざ決断するときに、その決断は一人で行い、そしてその決断が与える影響は、決して自分以外には大きくない。決断のタイミングでその横には誰もいないし、それを踏み出すのも一人である。そして踏み出した後に助けていただいた友人たちに「ありがとう、あれはこうすることにしたよ」と報告していた。親ですらその影響はあまり大きくないと思う。これは、親が自分たちと僕の決断をかなり切り離してくれていて「お前の思う通りに生きなさい」といってくれてさらには実践してくれているのは本当に本当に感謝している。が、この意味では孤独は孤独なのである。

さて、10年前の感想を見ると、とても気概を感じる。「自分で、じゃあそこまで行ってやろうじゃないの。」という発言は本当に頭がおかしい意思決定としか思えない。僕はクリスのhappiness only real when sharedという結論に全く納得がいっていなかったし、この結論に自分でたどり着きたいと言っていた。そしてRonに対してクリスが言い放ったことにとても深く感銘を受けて「人間関係からのみ人生のjoyがでるわけではない。街に出ろ」という言葉を本当に真に受けて感動していた。

10年経った今、僕はロンドンにいる。3年前に、結構心を開いた人間関係のもつれがきっかけで、ロンドンに引越しでもするかな、と思っていろんな準備をして実際にきたわけだが、それ以降は深い孤独を見ることが多かった。東京にいた時は、もちろん生まれ育った街だし、いつでも自分には恵まれ過ぎている友達にアクセス可能であるという心理も手伝ってたまに深い孤独を覚える程度だった。そして、それは結構システマティックに解消できていた。しかし、ロンドンに越してきてから、自分は孤独と本当に隣り合わせにいる。いつ何時だって深い孤独の中にいる。たまに人とやりとりすると、またそれが自分の孤独を際立たせる。ロンドンにきたのは「強く」なりたかったからきたわけだし、自分はできると思ってやってきたが、こんなにも孤独と隣り合わせで、強く意識させられるとは思わなかった。もはや、僕のロンドンはクリスのアラスカである。

夏休みということもあって、10年ぶりにInto the Wildを見返した。そして今回は、クリスがいろんな係累をほどいていき、また求める映画に見えた。例えば、16歳の女の子と別れていくシーン。"If you want something in life, reach out and grab it"と気を持たれていた16歳の女の子に、自分でないものをgrabしろといって放つ。「自分ではないものを取りなさい」という物言いは、完全に孤独に向かっていく人そのものである(そういえば対異性かどうかはともかくとして僕もした)。そして、10年前も触れたRonとのシーンは、今回は全く別に映った。Ronが養子にならないか、と勇気を振り絞っていうシーン、そしてそれをいいかもと思うような含みを持たせつつアラスカへと消えていくクリス。これは何か淡い係累が二人の間に表れて、Ronが勇気を出したシーン、そしてそれにクリスが答えるようなシーンに写った。そのあと係累の幸せというものに対してあまり結論が見えてないまま、アラスカの草原で行き着いた廃バスの中でトルストイの家族の幸福を読む。"I have lived through much, and now I think I have found what is needed for happiness. (中略) And then, (on top of all that,) you for a mate, and children perhaps—what more can the heart of man desire?" これを見てクリスは帰ろうとしたのだ川が増水して帰れない。そんな中で鹿を殺して食べようとしたり、植物を食べようとしたりしていくなかで、毒性の植物を食べてしまって、衰弱して死んでいく。死んでいく中で、ドクトルジバゴに"happiness only real when shared"と書き込む。この最後の二つはクリスがまたつながりを求めつつある話のように写っていった。

今回、10年前に感じた、「クリスが強い」「こういう人生が強い」のような認識には一切ならなかった。happiness only real when sharedも、このシーンで泣いてしまった。実はクリスと似たような過程をへて、「究極に孤独を実践する。他人に頼らないとはどういうことか。」は実践しきって、クリスと同じような結論にたどり着きつつあるのかなと感じた。もう、実は、10年前に考えていた「自分で、じゃあそこまで行ってやろうじゃないの。」は実は達成されていたのかもしれない。もう自分には、この10年間で実践してきた強い孤独は必要ないのかもしれない。今はひょっとしたらhapiness only real when sharedを求めているのかもしれない。Time to go. 自分は、Into the Wild的10年を終わらせて、新しい主題が必要である気がしている。

Into the Wild

Into the Wild

Mr. Childrenと天ぷらの話

村上春樹は、上手な自己紹介の文章を書くコツとして「天ぷらについてかくように」といった。これは、あまり特別でないものに対して、自分との関係を書くことによってオリジナリティを出していく、というような文意だったと記憶している。

ここでMr. Childrenについて書くというのは、僕と天ぷらについて書くようなものである。桜井和寿論、みたいなことを言い出せるほどMr. Childrenを聞いてない。さらに、そこまでエポックメイキングだったように思わない。もし僕がエポックメイキングだと真に信じているミュージシャンのうちの一人Jeff Beckについて書くなら、自分との関係というより、他の音楽との関係について書き、どれだけJeff Beckはオリジナリティのある挑戦を繰り返したのか、ということを説得するために書きたい。だが、別にMr. Childrenはそのような位置付けが可能であると僕は思っていない。

ミスチルを聞いています、といいだすのは微妙に恥ずかしい側面がある。一方で、別にエポックメイキングではあると思わないけれど、いろんな恥を忍んで書けばミスチルは少なくとも僕の多感な時期の数ページを彩ったことは否定できない。僕個人の文脈の中に、いろんな彼らの曲が整理されている。今日はそういうものについて書きたい。僕と天ぷらについて書くように。

僕が聞き出したのは、優しい歌や君が好きの時期であったように思う。初めてのベストアルバムを出す程度に仕事がまとまり、暗い歌を歌うことをある程度やめた時期であるように認識している。いろいろ聞いたけど、特に深海前後が好きであった。勝手にベストアルバムについていた解説などのうろ覚えの知識でこの前後の時期をさっと振り返る。

Cross roads, innocent world などJ-pop黄金時代の時流に乗りつつヒットを重ねて、これなら売れると書いた瞬間に確信したらしいtomorrow never knowsを出して見事ミスチル史上最大の売り上げをあげたが、そこからどうやら桜井本人の生活が乱れ、方向性を失ったらしく、その混乱の果てに出てきたものが深海である。深海はサウンドが重く、また結構バンドサウンドのものが多い。そして歌詞はやたらと暗いし、最近のファンからは考えられないくらい歌詞が暗い。tomorrow never knowsを含む、この時期に出ていた明るめのポップスは、このアルバムには入らず、二枚組構想とも呼ばれていたboleroに収録されている。boleroの後、活動休止し、一年後に終わりなき旅や光の射す方へなど希望があるようなシングル曲を含むDiscoveryを出し、同じような路線でQを出し、ベストアルバムとして10年くらいの仕事をまとめ、そのあとはIt’s a wonderful worldなどのファンを増やす応援歌のようなポップスへと向かっていく。

たしかミスチルを聴いていたのは中学生くらいの時だった気がする。当時ギターを始めたばかりで、B’zが好きだった。B’zはウルトラソウルを出していたころである。ベストアルバムを一通り聞き、耳障りの良さが気に入り、よく聞くリストに入っていた。しかしそのままハードロックに傾倒してししまい、B’zは生き残ったものの、聴いていたゆずやミスチルは奥へと追いやられた。

高校生になると、バンドを始めた。うまくいかなかったけれど。この時に何かできるものがないかなと思い、ミスチルを聞き返してみると、ポップス路線のものは金もテクもない高校生が再現するのにはすごいつらかったが、深海やBORELOやニシエヒガシエの時期の曲はバンドサウンドが前に出てくることが多く、ハードロックから一周回ってこれらはよく聴いていたように思う。

その後、何のきっかけだか忘れたが、多分高2くらいで深海は僕の中で再発見される。深海はブックオフで安く、CDとして持っていたことも影響していると思う。また、アトミックハートもBORELOも偶然持っていた。逆に、それ以外は持っていなかった。全体的に暗く、何かもがくようなものが自分の心を掴んでいた。そして、大学に入って、何度か「桜井さんの歌詞は本当に素敵」というようなミスチル好き女性を見かけるたびに、この時期のミスチルが何と無く愛すべき対象のように思えた。

終わりなき旅に励まされたことがないといえば嘘になる。HEROのようなポップス路線に心が動かなかったといえば嘘になる。だけど、深海のような、混乱から出てきたり、その前のダンスダンスダンスやラブコネクションのようなあからさまなイライラや人間の微妙に汚い部分が暗に伝わるような曲の方に、心は惹かれる。

そして、音楽は自分の生活の大きなパートからは外れてしまったが、つい最近ミスチルはネット配信されているらしいことを知り、もう一度聞いてみるか思った。そして、深い混乱にあった桜井和寿の年齢を実は少し超えていることに気づいた。

深海の前後では、エポックメイキングでないもののtomorrow never knowsを自分の推測よりあて、ジミヘンやカートコバーンが経験したものと似た混乱が桜井を襲い、その混乱を深海に放ったのだと思う。その後、活動休止を経て、混乱から回復したような歌詞である終わりなき旅を放ち、仕事をベストアルバムとしてまとめ、そして「憎めよ生まれてきた悲劇」とも言ったこの世界をIt’s a wonderful worldというカウンターとも言えるアルバムを出しポップ路線となり、大学で出会った僕よりまっすぐな人たちの心にまっすぐ届くようにメッセージをだすようになったと思うと興味深い。

別に混乱したいとは思わないけれど、自分にもこういうヒットを経てある程度優しくなれたらなと思う。ただのおっさんまっしぐらだけど。こういう目線でミスチルの深海前後を見て、彼らの年表と自分のキャリアを重ねると、自分は実は勝負所はいまなのかもしれないと思っている。

Mr.Children 1992-1995

Mr.Children 1992-1995

シャイニングスコーピオン的光景

ちょっと前にまとめた文章を公開してみる。とはいえ今とあまり変わらない。まぁまぁ久々の行き場のない思いである。特に行き先のない思いが交錯し、行き先のない自分がいる。

今現状の何に対して/何がきっかけでそう思ったか、という具体的な話は直接は語らない。だけど、今何を思っているかについて記したい。

行き場のない思いは久々である。
行き場のない思いを最初に感じたのは、あるいは僕の中で「行き場のない」の定義となっているのは、小学生のシャイニングスコーピオンというゲームの経験である。ミニ四駆のゲームで、レースに勝つことを目的としたゲームである。レースで勝つことによりたまるポイントでパーツを買い、強く(速く)なっていく。大きいレースを勝ち進むと、次の大きいレースに進める。一方で、負けると修行街のような街に送られ、そこでのレースに勝たないと本編に戻れない。一度負けると、負けて送られた先で勝たないといけないのだが、一つ注意しないといけないポイントは、買ったパーツが磨耗し、弱く(遅く)なるという点である。レースをするも勝てないとポイントも手に入らず、パーツだけが摩耗し、もういちどレースに挑戦しても負けて戻れない、ということがおこる。小学生ながらに「ああもうここで俺は終わりなんだな…」という気持ちになって、ついぞ29歳になった今に到るまでクリアしていない。また、僕の「行き場のない思い」や「絶望」の基礎を作るに至っている。

この「もうどうしようもない」のような思いを実際に経験したのは、人生の中で今の所2回である。高三の時に東大に落ちたときとスイスにいたときである。

東大に落ちた時、真っ先に思い出したのはシャイニングスコーピオンだった。少し背景について補足しておくと、高校は上20%くらいにいたら高確率で現役で東大に合格する高校で、高三の時は成績がだいたい上20%くらいだった。また、現役生で取れたら受かると言われていた東大模試でのA判定も出していた。僕以上に、周りが受かると思っていたと思う。一方で当時東大に落ちること自体は許容していた。別に落ちても死ぬわけではない、ともともと思っていて、現役で受かった大学に行こうと思っていた。でも問題は落ち方で、苦手だったセンター試験が1点足らずに一次で切られた。現役で決めようと強く思っていたけれど、ここまで不完全燃焼感が残るとは想像していなかった。「受かる」と言われていたのだから、最低限挑戦したかった。「あと1点あったら」という思いが頭を駆け巡るが、その思いがいくら僕の頭の中を駆け巡ってもその1点は動かない。結局他に合格していた私立大学には行かずに浪人することになったが、あの時の「どこにも行けない」気持ちはシャイニングスコーピオンに近い。またそのあと「あの時1点あったら」 のようなことは思わなかったが、もう少し曖昧な行き場のない思いを一年間抱えていた。

#別にいまだに浪人したことに対してコンプレックスがあっていまだに大学受験の細かい点数を覚えている…のようなことでは全くない。むしろこれ以外のことはもうほとんど覚えていない。ただこの時に「受かると言われていたんだから挑戦したかった」と思ったことに付随する感情を強く覚えているという話であるし、それでしかない。

時は過ぎて、大学院生の時にスイスに交換留学した。これは本当に何もうまくいかなかった。寮に入っていた日本人は上手に日本人コミュニティを作って盛り上がっていた。一部の日本人はインターナショナルなコミュニティを作っていた。それを尻目に、僕は細々と授業で仲良くなった人とたまに遊びにいったり、たまに日本人コミュニティに顔を出すもあまり溶け込めず徐々にフェードアウトした。結局最初半年は英語は勉強したけどそれ以外はチューリッヒ湖の辺りでウィンナー食べつつ白鳥にパンを与えながら1日が過ぎていったこと以外あまり記憶がない。そんな中で何かインターンシップや研究したいと思った。まずは研究がいいかなと思い、先生にメールして、受け入れてもらえるということだったが、事務手続きがうまくいかずにポシャってしまった。インターンシップをしようと思い、いろいろ書類を出したが、やはり交換留学生がいきなり職を見つけるのは難しく、履歴書出しても返事は来ないし、返事が来て選考進めようと言われても「スイスの大学はいつ卒業するんだ」と聞かれて、東大の所属であることを説明したらそのまま流れた。「今までどうにかなってきたし、今回もどうにかなるだろう」と思っていたが、ついぞどうにもならなかった。「こんな思いをするためにスイスに来たんだっけか?」となんども思ったが、帰国してもすることないと思い、何もできなかった。時間があったので本当に本当にあちこち旅行した。ヨーロッパは行き尽くしたし、もうヨーロッパに旅行に行きたいと思わないのだけは人生のなかでプラスだと思ってはいる。ただただ時間は過ぎていくが、どこにも行けない思いが、ふとシャイニングスコーピオンを思い出させた。本当に履歴書的には何も大した経験をしないまま、日本に一年経って戻った。残ったのは、微妙に英語に対して物怖じしなくなった根性だけである。そしてそれは英語を操る技術自体とあまり関係がない。ヨーロッパに対していろいろ視点はできたが、直接それが飯の種になることは多分ない。

「何かしようと思っても、どこにも行けない」という思いに、今徐々に近づきつつある。今の場所から俺はどこにもいけないのでは、と思うような出来事が多い。スイスから帰ってきてからは、もうこういう思いはしないと強く念じ、積み上げていったと思っていた。積み上げが微妙にうまくいかないところもあったけど、とりあえず現状ではある。一方で、現状からだんだん行き止まりに衝突しそうになっているのを何もできずに見ている立場になりつつあり、積み上げてきたものが全部間違っていたのでは、という思いが微妙に交錯する。

もう若くない。大学受験なんてどうでもいい。スイスはもう少しやりようがあったと思うが、クソが、インターナショナルな環境でもっとうまくやってやる、って思えなければ今とは違っていたかもしれず、そういう観点からは自分には必要な一年だったのかもしれない。でも、今、ここで積み上げたものが全部間違っていた場合、あるいは間違っている割合がクリティカルな量を超えていた場合、どうしたらいいのかよくわからない。今出口がないのか、それともただただ運が悪いのが少し続いているのか、よくわからない。