Into the Wild的10年

今から約10年前、一つの映画を見た。Into the Wild. クリスという若者が、アラスカを目指して旅をする映画である。ロードムービーの一種なんだろう。そして、10年前、映画を見た感想はここにまとめている。

まず、10年前の感想を見る前に、何でこの映画を知ったかは覚えていないが、10年前にはこの映画を見る経緯というものがあった。この時、主に大学二年生の時は、いろんな人間関係に悩んでいた。あるものはただただ自分の望まない係累として、あるものはあるべき関係が見えずにわからなくなっているものとして、あるものは失ってしまったものとして、あるものはもう少し仲良くなりたいが踏み出せないものとして。とにかく人間関係やそれにまつわる付随して起こる悩みが多かった。そして、さらに社交イベントがあって新たな人間関係が築かれていった。そして一人暮らしの家に帰って天井を眺めて、気が向いたらチャリンコに乗って深夜徘徊していた。要するに疲れていた。そして、この係累をほどいたら、と孤独やら何やらについてなんとなく考えるようになった。確かそんな経緯で10年前にこれを見と記憶している。そして、これを見た後に、紀伊半島をチャリンコで一周したりしてみた。案外一人でもいけるのかな、というちょっとした手応えを紀伊半島で感じた。この映画を見て、感想にもある通り、「強く生きる」というのをなんとなく実践したかった。

あれから10年間、まあまあこのInto the Wildにimplicitに影響を受けて生活してきたんだなとふと思う。これ以降、比較的よくバックパックを抱え、限界に挑戦するような一人の旅にもよく出るようになった。旅先の人と仲良くして、旅中にはあまり自分の知っている人とはコンタクトを取らないようにもしていた。そうしていくうちに、大学二年生のときにあれだけ頑張っていた人付き合いで知り合った人の大部分とは現実的なバックグラウンドも離れてしまっていってしまって疎遠になっていった。けれど、それから先、もちろん前も、友達にはとても自分には十分すぎるほどに恵まれていた。ちょうどクリスがいろんな優しい人たちと出会うように。一方で、誰かにちゃんと心を開くような関係については大学二年生のときほどは夢中になれなかったことが多かったし、何より自分が何を思ってるかについても、相手が何を思ってるかについても、全くわからなかった。これがトリガーなのかはわからないが、自分の思いを素直にぶつけるということが何か恥ずかしくなってしまった前にもまして難しくなり、自分の思いを上手に隠す術がとにかく身についていった。社交イベントにもあまり行かなくなったけれど、いったら最後とにかく自分の立ち位置をフレキシブルに変えて場を盛り上げることに執着するようになった。

こうして、自分はなんとなく壁を作り、もちろん友達に助けられてきたが、なんとなく自分を孤独だとラベルづけをしていた。これは、決断するときの真横には別に誰もいない、そしてその影響は自分以外には大きくないという意味で孤独であったと噛み締めている。それこそ自分にはもったい無いような友人にいろいろ助けてもらった。けれど、いざ決断するときに、その決断は一人で行い、そしてその決断が与える影響は、決して自分以外には大きくない。決断のタイミングでその横には誰もいないし、それを踏み出すのも一人である。そして踏み出した後に助けていただいた友人たちに「ありがとう、あれはこうすることにしたよ」と報告していた。親ですらその影響はあまり大きくないと思う。これは、親が自分たちと僕の決断をかなり切り離してくれていて「お前の思う通りに生きなさい」といってくれてさらには実践してくれているのは本当に本当に感謝している。が、この意味では孤独は孤独なのである。

さて、10年前の感想を見ると、とても気概を感じる。「自分で、じゃあそこまで行ってやろうじゃないの。」という発言は本当に頭がおかしい意思決定としか思えない。僕はクリスのhappiness only real when sharedという結論に全く納得がいっていなかったし、この結論に自分でたどり着きたいと言っていた。そしてRonに対してクリスが言い放ったことにとても深く感銘を受けて「人間関係からのみ人生のjoyがでるわけではない。街に出ろ」という言葉を本当に真に受けて感動していた。

10年経った今、僕はロンドンにいる。3年前に、結構心を開いた人間関係のもつれがきっかけで、ロンドンに引越しでもするかな、と思っていろんな準備をして実際にきたわけだが、それ以降は深い孤独を見ることが多かった。東京にいた時は、もちろん生まれ育った街だし、いつでも自分には恵まれ過ぎている友達にアクセス可能であるという心理も手伝ってたまに深い孤独を覚える程度だった。そして、それは結構システマティックに解消できていた。しかし、ロンドンに越してきてから、自分は孤独と本当に隣り合わせにいる。いつ何時だって深い孤独の中にいる。たまに人とやりとりすると、またそれが自分の孤独を際立たせる。ロンドンにきたのは「強く」なりたかったからきたわけだし、自分はできると思ってやってきたが、こんなにも孤独と隣り合わせで、強く意識させられるとは思わなかった。もはや、僕のロンドンはクリスのアラスカである。

夏休みということもあって、10年ぶりにInto the Wildを見返した。そして今回は、クリスがいろんな係累をほどいていき、また求める映画に見えた。例えば、16歳の女の子と別れていくシーン。"If you want something in life, reach out and grab it"と気を持たれていた16歳の女の子に、自分でないものをgrabしろといって放つ。「自分ではないものを取りなさい」という物言いは、完全に孤独に向かっていく人そのものである(そういえば対異性かどうかはともかくとして僕もした)。そして、10年前も触れたRonとのシーンは、今回は全く別に映った。Ronが養子にならないか、と勇気を振り絞っていうシーン、そしてそれをいいかもと思うような含みを持たせつつアラスカへと消えていくクリス。これは何か淡い係累が二人の間に表れて、Ronが勇気を出したシーン、そしてそれにクリスが答えるようなシーンに写った。そのあと係累の幸せというものに対してあまり結論が見えてないまま、アラスカの草原で行き着いた廃バスの中でトルストイの家族の幸福を読む。"I have lived through much, and now I think I have found what is needed for happiness. (中略) And then, (on top of all that,) you for a mate, and children perhaps—what more can the heart of man desire?" これを見てクリスは帰ろうとしたのだ川が増水して帰れない。そんな中で鹿を殺して食べようとしたり、植物を食べようとしたりしていくなかで、毒性の植物を食べてしまって、衰弱して死んでいく。死んでいく中で、ドクトルジバゴに"happiness only real when shared"と書き込む。この最後の二つはクリスがまたつながりを求めつつある話のように写っていった。

今回、10年前に感じた、「クリスが強い」「こういう人生が強い」のような認識には一切ならなかった。happiness only real when sharedも、このシーンで泣いてしまった。実はクリスと似たような過程をへて、「究極に孤独を実践する。他人に頼らないとはどういうことか。」は実践しきって、クリスと同じような結論にたどり着きつつあるのかなと感じた。もう、実は、10年前に考えていた「自分で、じゃあそこまで行ってやろうじゃないの。」は実は達成されていたのかもしれない。もう自分には、この10年間で実践してきた強い孤独は必要ないのかもしれない。今はひょっとしたらhapiness only real when sharedを求めているのかもしれない。Time to go. 自分は、Into the Wild的10年を終わらせて、新しい主題が必要である気がしている。

Into the Wild

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