春にして君を離れ

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ / アガサ・クリスティー


スゴ本さんで紹介されていて、興味を持ったので、読みました。


スゴ本さんと、僕がここに書き散らす思考のメモは完全に目的が違い、
僕の方は、本を紹介することを目的としているわけではなく、
最後まで読んで自分が何を思ったか、を残しておくことを目的としているため、
この本のオチに触れます。


この本が読みたくなるような書評を期待するのなら、どうぞスゴ本さんへ。
いやそれにしてもスゴ本さんのこの書評の書き方はうまいな…
ラストも書かずに興味をそそらせるとは。


さて、『春にして君を離れ』がどういう話かというと。
アガサ・クリスティーの作品なのに、人も死ななければ、それゆえ犯人もいない。


それなりに、高収入の夫を得て、子育ても一段落したイギリス人女性が、海外旅行中に足止めを食らう。
バグダッドを出てイギリスに帰るところだったが、電車が来ない。
見知らぬ土地、見知らぬ人々、電車も来ない。やることがない。


想起されるのは、イギリスにいる夫のこと、各地に散った子供たちのこと。
「いろいろあったが私はいい妻であった」
夫は弁護士をやめて農場をやりたいと言ってたが、それは現実的じゃないといって止めた。
「そしてよき母でもある」
「私はこの人を愛している」と医者と不倫をしていた娘も止めることができた。
夫が今みたいに弁護士事務所を成功させているのも、子供たちが立派に巣立っていったのも、
全部自分がいたから。
私は夫や子供を愛している。
そして、「良き妻」「良き母」であり続けた。


バグダッドを出る前に、旧知の知り合いにあった。
昔は美しかったのに、今やもう見る影もない。
みずぼらしい、それに比べ私はまだ外見も保っている、社会的にも問題ない、
私は幸せで、家族は幸せだ。


…はたしてそうだったのか?
そして暇にまかせてそれらに懐疑の目が向いてしまう。
はたして「本当に」夫は幸せだったのだろうか。農場が本当にしたかったんじゃないだろうか。
思い返してみて、夫のさまざまな言動が気になってくる。
子供たちは本当に幸せだったのだろうか。
ただ私が正しいと思っていたことを押しつけていただけじゃないんじゃないだろうか。


そうして一つのことに気付いてしまう。
「夫の間違い、子供たちの間違いは全部自分が直してきた」というのは
実はただの自己満足だったことに。
気付いたところで、電車が来た。
これでイギリスに帰れる…

            • -

自分のしていることがはたして人のためだろうか。
人のためにしているつもりが、
実はそれは相手にとってうっとうしがられていることではないだろうか。
どこかで信じないと行動できない。
でも、本当にそれが正しいのか、それは常に疑問として脳裏に張り付く。
「これ絶対にお前のためだから」
「お前らのためにやってあげているのに…」
そんな自己欺瞞に陥っていることも多々ある。
日ごろの行動をそれなりに反省するきっかけをこの本はくれる。

              • -

主人公であるこの女性は、そんな考えを持ったこともなかった。
私は、本当に人のために生きている。
自己満足に陥りがちだといった女学校の校長が、
何のことを言っているのかさっぱり分からない。
私は、絶対に正しい。そして、人のためになることをしていると確信している。
そんな確信が崩れ去っていく。
夫や子供に「赦してください」、という結論を出した。


イギリスに帰ってきた。家についた。
落ち着いて考えよう。
さて、私が旅行中に考えていたことは正しかったのか…
それとも、前のほうが正しかったのか…
どちらか決めないといけない。
そろそろ夫が帰ってくる。
「赦して!」というか「帰ってきたよ、さみしかったでしょう!」と言うか…
そして夫が帰ってきて、「おかえりなさい、さみしかったでしょう」という。


さて、果たしてこの女性の予言は当たっていた。
子供たちは母親のことを実は憎んでおり、夫も農場を未だにしたがっている。
夫は、子供たちから「母親とは会いたくない」という手紙をもらっている。
でも、夫からすれば、この主人公の女性は妻なのだ。
余計な苦しみを味あわせることもなかろうと手紙を焼く。
気付かない方がいいことだってあるのだ。
そして、普段と同じく、夫は妻に優しく微笑みかける。

              • -

とまぁこんな話。


この本で面白いな、と思ったのは、
「おかえりなさい、さみしかったでしょう」で話が終わらなかったことだと思う。
きちんと、この女性が旅行中に思っていたことがあたっていた、
そして最後の最後でその結論をひっくり返した女性の悲劇さを書いている。
アガサ・クリスティーが書きたかったのは、
自己欺瞞に目を向けるを出すプロセスではなかったのだ。
この女性の、「作られた幸せ」を書いている。


そして、たぶんこれを問うている。「これは本当に幸せですか」と。

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ちょっと話はそれるんだけど。


いつの間にか、自分の個人的な話を人にするのが好きじゃなくなっていた。
1年くらい前まで、何も考えずにそういう話をしていた。
でも、何も具体的なものを持たない自分がそういう話をしてもなぁ…
と思い、意識的にも、自信をなくしたという意味合いでも、
自然かつ意識的にそういう話をしなくなった。


後輩にも見抜かれていて、「本性見せない」とか言われた笑。当たりです。大当たりです。
「えへっ、でしょでしょ。」とか言っといたけど、結構内心青ざめた笑。
それとこの間友人と飯を食いに行って、
そんな話をちょっとしたら恥ずかしくなって途中でやめてしまった。


このブログも、メモとして使っている割には、そういう話は絶対に書いてない。
思ったこと、というのを自分から離していかに書くか、というのを目標にしていたといっても過言ではない。


代わりに得意になったのは、
即席的な会話と、なんとなく批判すること。
特にここ半年は人と話をすることもさほどなくなったので、
後者が顕著に伸びている、気がする。

なんだけど、そろそろダメな気がしている。
いろんな具体的なものは、背後にあるグランドセオリーに支えられているはずで、
そのグランドセオリーが「自分のこと」だったんだな、と思いなおした。

もし自分が何かを話したとしても、
それは別に「自分の話」ではなくて、なんとなく思ったことだったりして、
本質に全くたどりつきようのない、消費された一言を発している気がしている。


ということで、自分がどう感じたのか、という話を自分の話としてします。
というのも、こういうことを感じたから、まず話の枕として、この話を書いたのだけど。

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さて、アガサ・クリスティーが出した(と僕が勝手に考えている)
「この女性は本当に幸せですか?」
という問の答えを自分なりに書いていきたい。


多くの人は、
「そうじゃないかもしれないけど、当人にとってはこれが幸せだろうね。」
という回答をすると僕はなんとなく思っている。
僕も前ならそんなことを言っていた。


でも、きっぱりと、この人は幸せじゃないんじゃないかな、と言いたい。
「当人にとって…」はただの幸福の相対化にすぎない。


この女性は、結局、自分の提案が、全部無意味だったのだ。
何一つとして、他人に何かいいことをもたらしていない。
自分がそれをよかれと思っていてやっていたものは、
全部提案された側からすれば迷惑でしかない。
そして、まぁよかれと思ってやってはくれているから…
と言って、彼女の幸せを壊さないように、従うように演じられ続けている。

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僕もよくこの女性と似たようなことをやってしまう。
特に何にも考えずに、相手のことを真に考えているとは言えないような提案、
というよりただ「いいたいだけ」のことを発している。
でも後々思い返してみて、あれなんだったんだろうな…と思い返すことが多く、怖くなってくる。
真剣になればなるほど、僕はものが人に言えなくなる。


ということで、自分の課題として、
「真に、自分の価値観を持って他人に踏み込んで提案する」というのがある。
長いこと持っている課題なんだけど、いっこうに達成される感じがしない。
一個の問題に見えて、かなりの多くの問題を内にはらんでいる。
クリアしないといけない難所が多すぎる。


そんなんで、「幸福の相対化」をいくらしたところで、
結局のところ、誰も幸せになんてなれやしない。
それが導くのはただ一つ、自分が幸せだと自己欺瞞に陥らせること。
なので、まず、絶対的な価値観を持たないといけない。
何が善で何が悪なのか、というのを自分の中に持たないといけない。
そこから提案が自分の中にできて、相手に踏み込めるのか踏み込めないのか、という問題になる。


ということで、
僕は、この自分の信条に反する、という点において、幸せではない、と言いたい。

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この女性が「真に、自分の価値観を持って他人に踏み込んで提案する」という僕の問いに
及んでない点を最後に指摘しておきたい。


この人は、人のために良かれと思って提案をしているが、
結局のところ、受け取られる形として発信していないのが問題なのである。
なぜ受け取られてないのか。

家族たちのいろんな問題に対して、いろんな提案をしているが、
この人にとって、家族の問題は、家族たち各々の問題ではなくなっている。
これらは、その女性自身の問題になってしまっていて、
提案をしている自分に満足してしまっている。
それゆえに、家族たちは、彼女の価値観で彼女の中で解決してしまった問題に対して、
状況として答えを出すには、彼女の答えに従うしかないのだ。
なぜならば、もう彼女の中では、その提案がなされた時点で解決済みの問題だからだ。


僕が言ってるのはそんなんじゃない。
届く形で提案ができること、そして選択の自由はあくまでも相手が担保していること。
いやこうがいい、とたとえば僕が断固主張したとしても、
それより頑健なロジックで否定されることも、辞さない。
なんだけど、相手の判断を真に揺るがす程度までできたら、というのが僕の目標です。

              • -

長いこと書いたな…
久しぶりに自分の個人的な考えなんて書いたぞ…

話すことを忘れたみたいで、
口に出してしゃべるまでにはまだリハビリがいるだろうな。

ここに書いたことで、なんとなく前進した気がして満足して、
今日も僕は人の前でアホをふるまう気がする。