モダニズムの否定はどこから起こったか

建築をめざして (SD選書 21)

建築をめざして (SD選書 21)

負ける建築

負ける建築

建築を目指して/ル・コルビュジェ
負ける建築/隈研吾


の2冊を読んだ。


僕の今の疑問は「モダニズムの否定はどこから起こったか」

いわゆる機能主義と呼ばれるモダニズムは、
論理をそのまま形にするような主義で、
現在では、終わったとされている。
プルーイット・アイゴーなんかがその代表例とされる。


モダニズム以降さまざまな建築がなされてきたが、
どれもこれも、中心の主義とはならずに盛衰を繰り返す。
そして、現在の状況は「多様性」という言葉で説明される。


僕の意見であるが、
注目すべきは、「多様性」は主義でも何でもない。ただの現象である。
多様な○○なんて話をよく聞くが、これは現状を説明する言葉でしかなく、
さまざまなものを並べても、どこにも行けないことを、
目立った主張のない世相がよく表しているような気がする。
「近代という主義、現代という現象」僕はこうとらえている。
現代という時代で、一歩行くには、現代の現代性を信じていると何にもならない。


そういった観点から、どうして近代から現代へのスイッチが起こったのか、
ということが気になるようになった。きっとそこに現代のヒントがある。
だが、未だに答えは出ていない。
途中経過でしかないが、コルビュジェ隈研吾を読んだのでまとめておく。



まずは、近代の主義であるモダニズムの同定から入ろう。
そこでモダニズムの巨匠であるコルビュジェの本を読み説く。


『建築を目指して』はコルビュジェの金字塔とされる本である。
大抵コルビュジェの思想を汲もうとすると、この本を読むことになる。


さて、コルビュジェは、まず「様式」の否定から入る。
こうかくと、コルビュジェは様式を全否定しているように見えるが、実は違う。
コルビュジェの攻撃対象となっているのは、様式それ自体ではなく、
理由なくその様式を踏襲することである。
我々の生活は、日に日に様式が決まっている、とコルビュジェは言う。
そして、解決したい課題を住宅に設定すべきだ、という。
その、課題の解決手段としての、住宅建築。


「住宅は住むための機械である」という言葉がよく引かれる。
このまま取ると誤解が生じる。
コルビュジェが言いたかったのは、
家という機能そのものこそが家の本質である、という話のように思う。


そして、これはコルビュジェの問題意識にすぎないと考えている。
コルビュジェの主張は、コンクリートという武器を手に入れた建築家は、
「完全なる建築」を目指しなさい、ということのように思う。
完全なる建築というのには、
形も従い、そして機能も従う、そういった主張であるように感じた。


これに対して、
隈研吾は『負ける建築』で建築史的な概観を示す。
その際に、重要なポイントになるのは、この本のタイトルにもなっている「負ける」建築である。
負ける、とは何を言ってるのだろうか。


負ける、とは、要は、外的な制約条件のもとに建築が建つことを言っている(ような気がする
制約条件に「負ける」、現代の建築はそう建っている。
建築に建築以外の要因を持ち込んで議論する手法を多用していたこの本らしいタイトルだったように思われる。


そのロジックが、モダニズムのあたりでも用いられる。
隈研吾は、ここからの建築史的な流れを、資本という言葉で説明する。


コルビュジェやミースがあれだけ地位を獲得したのは、「住宅」という武器を手にしていたから、という指摘をする。
建築はそもそも、「建っている」ことから宿命的に逃れられないにも関わらず、
ユニバーサルデザインによって土地から「切断」したという。
家それ自体、もっと言えば、家という機能、大量生産されたものを、商品とした。
モダニズムは、機能主義であったために、どのように家を建てても同じようになるはず、というコルビュジェの主張である。
商品という観点から「住宅は住むための機械」であったのだ。


しかし、20世紀後半になると、資本と商品の関係が変わってくる。
今までは、厳密に対立項だったのに、資本それ自体も、商品としての性格を帯びてくる。
それゆえ、資本としての、人が住む場も、「顔」(いいかえれば、モダニズムで否定された「装飾」)を欲するようになった。
このようにして、モダニズム建築が「顔」を獲得し、モダニズムが終焉していく。


こういうロジックだった。


隈研吾の特徴は、この議論のプロセスに建築家の欲求が入ってこないことだ。
通常、モダニズムは、建築家の表現の場としての建築云々、と語られることが多い。(詳しくは知らない)
しかし、外的要因によってのみ記述されるあたりに、この議論の特徴があるように思われた。


さて、では、
表現の場としての建築史は、どのように記述されて、どのように社会に要請したのか。
今の気になるとこはそこである。

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社会の変容からの建築史への要請は、この本を見るとそれなりに分かる気がする。
ちなみにこの隈研吾の本は他にもいろいろ書いてあるので、読んでみると面白いと思います。



というか2冊の本を、こういう切り口でやったら、専門家でもないゆえ、どうしても薄っぺらくなる。