死の淵より

Sorry to be so dramaticとはタイトルのことなのだけど、二日続けて胃痙攣というものになった。もう立てないくらいに痛くなった。1日目はおさまったのでそのまま放置してたんだけど、2日目なったときは連続でなるのはやばげでは、と思って緊急外来にいった。緊急外来というのは、24時間walk-inで緊急度の高い症状に対して医療を受けられるという公立医療(NHS)のサービスである。救急車で行っても多分同じキューにいれられると思う、多分ね。

まず受付でトリアージされて、次に看護師さんによって問診がある。ここで完全に優先度が決まって待合室で待つ。多くの場合は優先順位が下げられるため、キューの後ろに置かれるためかなり待つことになる。僕が行ったところは、最初の受付からdischargeまで四時間を目指しているらしく、結局正味四時間かかった。僕の症状は波打つような胃の痛みが主で、緊急外来にきた時にはちょっとおさまりつつあったので、いつくるか不安にかられつつ、待合室で三時間、処置で一時間くらいかかった。

この待合室がすごいところだったと思う。待合室にいた三時間の間に、セキュリティに連れられる頭がおかしくなってしまった人が二人いた。泡を吹いて倒れてしまった人が二人いた。男とセックスして血が止まらずHIVかもとパニックになっている男がいた。とはいえ大半は骨折とかで、なんというか普通の待合室だし、みんな意識がきちんとある上に付き添いがかならずついていたため、普通の心持ちなら「こんなもんか」程度であったと思う。だけど、その付き添いがみんな付いている状況とのコントラストや、自分もこういうところに来た身ゆえの不安で待合室で自然と泣いてしまった。

処置の結果原因はわからなかったので鎮痛剤をいただいて帰った程度の症状ではあったのだけど(一応追加検査を週明けする)、かなり死が自分のそばにある経験で、いろいろ考えてしまったのでつらつらまとめておく。

■自分が死んで悲しむ人がいるか、あるいは頼れる人がいるか

これについては深刻に考えた。ここに書いた通り自分はいろんな決断を一人でしてきたのだけど(もちろん友人たちのたくさんの助けがあった)、その分いろんな係累をほどいてしまった気がする。本当に真剣に、待合室で、自分が死んだ時のことを思って孤独をもとめて最後荒野に入って死ぬ映画Into the Wildの毒草を食してしまうシーンが脳みそによぎった。まあきっと親は悲しんでくれるだろう。さて他には…?必要以上に孤独をしすぎていたんだなと気づいても少なくともこの緊急外来までは手遅れだった。

日本に生活の基盤があったので、日本の友人たちはなんかいろいろしてくれるんだと思うのだけど、ロンドンの友達はまだ浅い関係が多いので、何かあったときのヘルプとなるととても大変である。そういう関係ってどうやって作ってたんだっけかな?って思う程度に実はひょっとしたら友達を作るというところから遠ざかってるのかもなとも思っている。

家に帰って親に電話した。親に自分の話をするのは久しぶりだったように思う。簡単にまあ元気でないけれど生きてる、という説明をした。あと、自分に万が一のことがあったときの連絡などをいろいろアレンジした。日本の友達にも電話した。日本の友達にはなんかあったときの親のサポートをお願いするだけといえばそうなので、すこしロンドンの人に頼むより頼みやすい。にしてもまあまあなことをお願いしているのは重々承知しているのだけど、死んでからなお一人というのはとても怖かったのでしかたなしにお願いせざるを得なかった。

別に大したことは人生でしてないのだけど、僕のことは誰が知ってくれてるんだろう、とも思う。最近、自分の話はあまり包括的にはしないという気づきがあったのだけど、人々はいろんなことを言ってくれると思うけれども(悪い印象もいい印象も、あるいは印象がなかったとも)、誰が俺のことを包括的に知ってくれてるんだろう…今死んだら全て失われるんだなとも思った。僕は何を大事にしてあまり自分の話をしないのか、しなければ無いものになるんだなとも感じる。別にそれでどうなるんだと言われれば自分以外気にしないのはそうだと思うのだけど。

■リスクに対する許容を持っておく

風邪を引いたり、胃痙攣になることに対して多分対策のしようがあるんだと思うが、それに時間そしてそれ以上に神経を使いすぎても完全なる無駄である。それより、最低現の対処以上のことは、この手のことは確率的挙動をしていて、自分の身には確率的に起こることとして許容して、起こったら何をするのか、あるいはできるだけ怒った後にダメージを下げるプロトコル(保険とか連絡とか)ということを考えた方がいいという発想に至った。自分が予定がガチガチだった場合、ちょっとした胃痙攣で何もかもがうまくいかなくなってしまう。今回はたまたま緊急外来なるものがあるということを知っていて、たまたま予定がなかったから別に僕がぶっ倒れても問題なかったが、これが自分が不必要にギアアップしているときに起こっていたら結構やばかったと思う。ギアアップする対象と、時間は、本当に選んだ方がよくて、この時はありとあらゆるリスク許容度が下がる。けど、人生にはそういう時間が必要なのは他方でそうなので、そういうものがくるまでは120%のギアアップはしないほうがよいのかもしれない。そして、普段もっている余剰な時間は、少しだけ他人のリスクを下げることにつかってもいいのかなとも思うようになった。

■Story about death

Steve Jobsスタンフォードでの祝辞のスピーチはとても有名なものだと思うが、そのうちの3つ目が死に関する話だった。あまりにも有名なので、ここで内容がどういうものかと要約するのは避けるが、僕はこの話をあまりわかっていなかったんだなと思う。もちろん時間は無駄にはできないし、他人のいうことより自分の心の声を追えというのはお題目として理解できるのだけど、"Because almost everything — all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure — these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose."これは本当に脳みそによぎった。無職ながらに30年生きてしまったので、何か失うものがある気がしてしまって踏み出せていないあれこれが脳みそによぎった。俺は本当にあれをしなくて後悔しないのか…本当に自分がやらないといけないことってなんなんだろうな…とよぎってしまう。

■まだ死にたくない

たくさんのいろんなエクストリームな状況を見かけて、心のそこからそう思った。もう理屈でもないし、つくすべき言葉もでてこない。ただ、死にたくないと心のそこから思った。まだその準備はできていない。

薄っぺらい話かもしれない。薄っぺらいと思う。だけど、なんというか、本当に追い詰められた特殊な経験だったように思うので、記録しておく。