正しく歳をとる話

最近新型コロナウイルスの関係で、いろいろ考える時間がある。そして人の付き合いもほとんどない。ので、ちょっとした人からの連絡に、過敏に反応してしまう。そしてとても考え込んでしまう。また、なんかひとつ追い込まれてしまった。この追い込まれてしまった点を整理したい。

自分は正しく歳をとっているのだろうか。正しい歳のとりかたとはなんなのだろうか。一言で言えばこういう命題が提起された。いま僕が住んでいるイギリスは疫病の影響でいわゆる都市封鎖というのを行っていて、外出できない。その中で、流行の疫病よりもなによりも、この形のない恐怖が都市封鎖が始まる前後3週間自分の頭を支配していた。

ある人を反面教師としてこの話は始まる。この人がどういう人かというのはあまり本題には関係ない。というかこれはこの人の話ではなくてこの人から覗いたもう少し一般的な話である。

どこにでもこういう例はあると思うが、知り合ってまもない割には常に一歩積極的過ぎるきらいのあるやりとりが多いタイプの人の話である。さらに加えると、ステレオタイプには「oo歳にもなって独身」という特徴がある。oo歳は余計なお世話だが先進的進歩的に見てもまあまあな歳である。この基準からすると僕はまだその歳ではない。自分がコミュニケーションにおいて常識と信じる物が世間一般の方々が普通に信じるものかどうかについて自信がないし、合理的な推論にも自信がない。ただ、その合理的常識的な仮定と推論とは、伝えたいことがあって、その受け手として他人がいて、というやり取りの中で、受け手を想定したもののことである。その合理的常識的だと思われる範囲で仮定とそこからの推論をいくつかおいても、こういうコミュニケーションにはならないだろうと思わざるをえないことが多かった。一歩近いどころか、そういうシグナルを出してないにも関わらず合理的な仮定と推論をすると何歩か近かった。だけど、この人とは知り合ったばかりだし言ったところで何か得をすることも薄かったようにも思えたので特に何も言わなかった。

ただ、この人の距離の取れなさに、自分の未来がひょっとしたら重なるかもしれないという恐怖心が沸いた。この人とのやりとりを通してこの人は他人と正しく付き合ってきたのだろうか、という疑念がわいてしまった。もちろん特に明確なフィードバックをしなかった自分も悪いとは思うが、僕が考える範囲で合理的だと思われる仮定をもとにコミュニケーションを取ろうと思うとこうはならなかったと思う。そして僕の考える「合理的な範囲」は、他人と関わることによって培われてきたものだと思う。それは、表面的でない、友人や、あるいは恋人のような、表面的でない深い付き合いをある種考察を交えて真剣にしたかどうかだと思う。そして自分は、そこからoo歳までの間にひょっとしたらここまで深刻にいろいろなものを失ってしまうかもしれないと思ってしまった。

自分がこれが上手だとは思わない。僕も一人でいることが好きかどうかはわからないが別にそこまで苦ではない。他人とのコミュニケーションは疎にしておくほうがいいと思っている側面もある。他人との関わりの中には考えないとできないことも多いし、それがゆえにチョンボもある。そしてたまにそれが誰かの神経に触ってしまうこともある。暗に離れていく人もいれば、陽にきちんとフィードバックをくれる人もいる(後者の人々に僕は深く感謝しなければならない)。ただ、今回話題に上げている人の場合は、そういう努力がなされた痕跡が全く感じられなかった。

何がこの人をこうさせたのだろうと、とても興味がわいた。それでいろいろ観察したら、いくつかの特徴が見受けられた。特徴としては 1) あまり周りに友人や恋人がいなさそう 2) 思考の中に自己批判がなさそう 3) そしてある方向にプッシュする馬力がある くらいが認められた痕跡である。悪口を言いたいわけではないので詳しくなぜこう思ったかなどとあげつらうことはしない。しかも、この人は別にいい人である。ただ僕を対象としたこの人からみた「他人」と想定される物の距離がどのような合理的な仮定をおいてもこうはならないと思っただけである。

この中で1)と2)のポイントは、他者が自分の思考の射程に入ると改善されるが、生き方として3)を選ぶ場合、他者が基本的には邪魔なものとなってしまう。多分そうやってありとあらゆるものを乗り切ってきたのだろう。仕事には、もっと広く人生にはいろんな困難がある。人の助けを借りたりしながら乗り切ったりもする。その中で他人と関わることはこういうことなんだなと思うこともあると思う。だけど、これを馬力だけで乗り切る選択が多い場合、他人と関わるのは本質的には少ない。こういう人の場合、人にアドバイスを求めて僕にコンタクトしてきたように、一見1)があるように思えてしまう。だけど、それは好意的にいってもまやかしで、自分の中の視点でいえば確かにこの人をここで使えばいい、というふうに悪くいうと駒のように思うのだろうが、他者目線ではというふうにスイッチできてないことが多いのだと思う。自分の人生は自分が主人公であるが、社会はみんな自分が主人公として生きている。後者の視点がごくごく自然に落ちてしまっているように思う。

日本は幸か不幸か同調圧力が強くそこでフィードバックがかかることもあるが、それをすり抜けると純度高くヤバさが増す。oo歳にもなって結婚してないとは…と言われることもある。この主張に腹を立てることもあるが、同時にだんだん周りがいってくれなくなることが多いのだと思う。そして、自分には正しいフィードバックがかからずに、3)の方向を加速させ、1)や2)を欠き歳を取っていく…そして気づいた時には手遅れで元に戻れない。

これが気付かせることは、思ったより簡単にこの人のような「距離の取れなさ」の再現が取れることである。少しだけ距離の取り方がわからないまま、何かの間違いで一人をちょっとしてしまうと、簡単にこのフィードバックループに入る。その意味で僕はこの人のことを悪くいうつもりはない。人は簡単に、いくつかの仮定を満たしてしまうと、ボタンを掛け違えたまま服を着続けて戻れなくなる。oo歳になると、いつの間にかそのまま外を歩いてしまっているかもしれない。

自分は正しく歳を取っているのだろうか。自分は別に近すぎるということはあまりないと思うのだけど、逆に僕は比較的昔から軽度にシャットアウトしてしまうタイプの人間である。何か締め切りがある前は用事をいれないのはざらだった。東京にいた時は1ヶ月飲み会に行かないということも稀ではなかった(最後の二年はイギリスに行こうと思い立って忙しかった)。そして、実際にイギリスにきたら、今度は自分の碇を失い、コミュニティを失い、孤独と人の射程について真剣に考えている。今自分には正しいフィードバックというものがかかっているのだろうか。僕は3)のあまり1)や2)を失ってないだろうか。2)は自己訓練である程度どうにかなるものの、1)はどうにもならない。そして他人との射程を失い、他人の視点を失い、他人を求めても孤独であり続けるのかもしれないし、あるいはそれすら気付かずに笑われ続けるのかもしれない。正しい距離が取れてないという点においては、同じ穴のムジナである。もちろん近すぎるほうは近づかれるとある種のコストが発生するので腹立たしいけれど。遠い方だってもっと近ければいいのにと思ってコストが発生するからこれもあまり関係ないのかな?

人は社会的な生き物である。家族をなし、社会をなす。そのある種の練習の場としての身近な人を自分は得ていないまま馬力で物事を乗り切ろうとしていることにある種の躊躇を覚えてしまうようにもなっている。躊躇するため生産性にも寄与しない。独りのやりすぎは、取り返しが付かなくなりうる。ロックダウンの後半を比較的穏やかに乗り切っているということそれ自体が、実はよくないサインなのかもしれない。正しく歳を取っていない可能性が高い。何ができるんだろうか。つい先日、似たようなことが深夜ラジオでも起こった。あれも僕には「正しく歳を取れていない」の例に思えてしまう。「50にもなって風俗の話をしているのは幽霊の話みたいなもの」というのは、「oo歳にもなって距離が取れてないのは幽霊の話みたいなもの」と言ってもそんなに大差はない。

そろそろロックダウンが開けるかもしれない。ロックダウンに向けた準備より、実は開けることへの準備の方が大切なのかもしれない。