平日の昼間に外を歩いている人

小学校2年生の時の話。


そのころから人の話を聞けない子で、
授業中に外を眺めていた。


おばさんがシャベルを持ちながら、犬の散歩をしていた。
その10分後くらいに、スーツを着たお兄さんくらいの人が歩いていた。


これを見たとき、僕はこの2人に強烈な印象を感じたのを覚えている。
憧れを抱いていたのかもしれない。
この授業時間の印象は、全部これに持ってかれていた。





時は変わって、大学4年生。
僕は、平日の昼間に外を歩く人になっていた。


平日の昼間、ふらふら外を歩いていることは、ほぼ日常となっている。


よく考えたら、同期で外を平日の昼間にふらふら歩いているやつなんていない。
みんな、大学にいる。


僕は、みんなが普通にしていること、できることを積極的消極的に放棄しながら、外を歩いている。
今日も、別に取らなくてもいい授業を取っている。
別にしなくてもいい勉強を喫茶店でしている。


何してるんだろうな、ってふっと思う。
普通にやっていれば、あるいは、普通にやることができていれば、僕はこんなところにいない。
みんなと同じ授業に出て、みんなと同じように研究室にいるはずだった。



平日の昼間に外を歩きたくても歩けなかった高校までの生活は、
常に施設と言う箱の中にいた。


平日の昼間に外を歩けるようになったはずの大学1、2年のころは、
外を歩きながらも、ずっと自分の所属しているものを常に裏に意識していた。
ある時はサークルの一員、あるときは東京大学の学生として。


ここ1年半ほど、いつも何かを決めるのは自分だった。
わざわざ知見と知恵と聡明さに基づいたレールが用意されていたのにもかかわらず。


今ここにきて、僕は何にも所属意識を感じていない。
いろんな所属は、名義上の物で、拘束条件でしかない。


あの時あこがれていた、平日の昼間に外を歩ける人というのは、
裏に「責任」が伴うものなんだな、と痛感した。


自分で決めることはとても大変だし、正しい、あるいは効果があることなのかも全くわからない。
どこに向かってるのかも全く分からない。
それは全部自分のせい。


そんなこんなで、
ここ一年半ほど痛烈に学んできたことは「平日の昼間に外を歩くことのむずかしさ」
だと最近思っている。