一人の時間の値段の話

自分が多大なコストだと勝手に信じているものを払って手に入れたと思われるものが暴落したという愚痴です。

今は無職をしている。僕はこの事実自体にとても満足している。うだつの上がらない会社員をしていたが、そのうちうだつがあがらないどころか全く先行きが見えなくなってしまった。時間をとって物事を考えたくて、会社員をやめてまとまった時間を確保した。とはいえドロップアウトだし、特に気負うものもないほうがいいので、無職という肩書きを貫いている。いやどの意味合いにおいても無職でしかないのだけど、元ooより無職の方がとてもしっくりくる(ooに入りうるもの正しく選ぶと確かに少しセクシーになるのはそうだと思うし、他人にはたまにそういう紹介をされてしまうので、これを予防する技術が最近求められる)。そして、自分に対する責任が自分に全部戻ってきたので、その点には満足している。もちろん、もっとできていただろうとかそういう自分のかつて勝手に思っていた期待と自分の現在地のギャップにはよく萎える。

会社員をしていたとき少し将来に悩み出してから、自分一人で考える時間が欲しくて、とにかくまとまった時間を確保するためにある時点から人との接触を極端に減らしてしまった。家でぼんやり考え事をしたいという名目で、とにかくまとまった時間がないと意味がないと思っていた。まとまった時間を正しく使えたかと言われると、イギリスにいく準備に溶けた分は実際にイギリスに来たので報われたと思うが、それ以外の割合が多いのは否定できない。ゲームにも溶けたが、まあゲームはゲームから学んだことも多かったのでそんなに自分の中で罪悪感はない。何に消えたのかよくわからないけれど、ただあの時は自我を保つのが必死だった。ただ、うだつが上がらないこと以外は結構楽しかったように思う。

この経験から、僕は一人が好きなんだと思っていた。イギリスにいっても、かつて海外にいった時気負っていた「外人の友達をつくらないと!」と思わなくてもやっていけるだろう、そう思っていた。

これは間違っていたとヨーロッパの長くて厳しい冬を経て思った。いろんな前提が自分から抜け落ちていた。前提というものは、まず、自分の生活が保証されていないし、どこにも根付いていない。僕は日本に身分が真にない。そして、イギリスにもほとんどない。僕の生活はいろんな意味で一寸先は闇である。そして、自分の育ったところで一人をするのと、異国の地で一人をするのはだいぶ違う。東京で一人をしていたときはいつでも一人でない可能性にアクセス可能だったが、今は本当に独りである。しかも、日本に紐づいてすらない。その前提から僕の全ての生活が始まる。家族がいたり、日本からの紐付きだったりする人と身分が違うので、思うことも違う。

少し話は逸れるが、これはいい側面もある。なんでも日本と外国の比較で見ることがなくなった。そして、「日本」から始まるあれこれの肩の荷が降りた。もう国籍なんて聞かれないと言わないレベルになっているし、国の話なんて滅多にしない。日本に身分が紐づいている人は、内向きになってしまったり、あるいは過度な日本バッシングや日本人と自分は違うというような意見をもったりする。後者の人には特に残酷だが、正直な話前者と後者は五十歩百歩で、日本との距離感が上手くとれていないという点でほとんど何もかわらない。この手の人の中で、上手に距離を取れている人をついぞ見たことがない。そういう社会を見る目がクリティカルな職業についている人ですら全滅である。

話を戻す。冬を経て、前述のような理由で一人はダメで、これこそが諸悪の根源なんだと思った。ただ、この反省も違った。僕は、ノイズがダメだったんだと最近よくわかった。案外一人は自分が冬に見限ったよりは大丈夫だったと思っているし、なんならだいぶ強い方だとまた思い直すに至った。ただし、とはいえこれが強いことは何の自慢にもならないし、メンタルの安定のファクターにあまりよく寄与しない。ただ、割り込みのノイズが苦手で、最も対処しないといけないものなんだと。これはロックダウンの最初期、自分の周りから物が減っていった中で人間関係のいざこざが自分の心をとても揺さぶった時に気づいた。揺さぶられ方は不愉快だったが、このことに気付かせてくれた点には感謝をしている。上手く対処してからはずいぶん落ち着いていい時間を多分過ごしている。振り返ると、仕事もノイズにとても弱かった。自分がキャリアに悩んで仕事の中でこういうふうにしたいと思ったこととそうでないがやらなければならないことがあった時に、結構自我を保つのが大変だったし、結局僕が過ごしていた一人の時間はそれをバランスする時間だったように思う。冬は、何か上手く行かないことがあって、その時に求める人がいなかったのがメンタルが結構大変だった理由のように思う(もちろん上手く行かないことを発火した直接・間接的な要因は一人であったことでもある)。こうして、ノイズが今のところ僕が苦手だったものとして腑に落ちている(もちろんまた解釈が変わるかもしれない)し、このようにノイズが少ない環境になって、ノイズが苦手だということにも気づいて、回り回って満足している。

まあまあ長くなってしまったが、ここまでが自分が多大なコストを払った話。

問題は、新型コロナウイルスの影響で、みんなが僕が東京で過ごしていたいい時間を過ごしているということである。それはイギリスにいる人もそうだし、日本にいる人もそう。僕がこうやって一年二年のたうちまわってようやく落ち着いた頃の時間を、みんな過ごしている。僕が頑張って手に入れてきたものの価値が暴落し、どちらかといえばみんなに平等に与えられるというか強制されるものになった。とてもうらやましい。うらやましい以上のコメントはない。ただ言えることは、それで「よし自分は孤独が大丈夫」と思うな、ということである。あなたの大丈夫は、種々の係累に支えられていることがほとんどである。家族、仕事、コミュニティなどなど、あなたを陰に陽に支えているものはたくさんある。これらを無視して「一人が得意」というのは有り体にいえばおこがましい話かもしれない。そんな説教より、これをきっかけに変に自信をつけて無職を始めると、僕が長々と上に書いたような経緯を経ることになるし、運が悪いと死ぬ。どうか、一人が大丈夫、という方向に自信をつけないでほしい。ここちよい一人を楽しむ程度にしておいてほしい。僕は、その方向は間違っていたと今本当に反省している。そしてその報いを、心地よかった一人の時間の価値の暴落という形で受けている。