夜の話

いくつか人恋しかったり、考えたり、思いが詰まったりする夜が人生にはあると思うが、こういう夜が来るたびに夜は不思議な時間だなと思う。
小学生の時には夜は大抵怖いものとして認識されて、九時に寝たりする。中高にもなると、なにかしらか、本だったり漫画だったり音楽だったりしたのだけど、それらに熱中して夜更かしをしていた。これはこれでいま人生の貴重な財産である。
大学生になると、いくつか夜の過ごし方に幅が出てきたように思う。魔の言葉「オール」に誘われ、コミュニティの人と飲み明かしたりもした。自分の将来について思い詰めることもあった。人間関係で悩むこともあった。布団の中にくるまってあーだこーだ考えるだけの時もあれば、いてもたってもいられず、自転車であちこち走り回ったりもした。また特に院生になってからは、研究で追い詰められたりもしていた。
社会人になっても、夜を過ごしてしまう理由はあまり変わらない。ただ、周りに友達と呼べる人が減ったからなのか、人恋しくなって、一人で誰かを求めて飲み屋にいくこともあった。
バーのマスターなど、夜に所属している人とそれなりに出会う。そういう人と話すのも楽しい。そこに集う人とも、儚い感じは刹那的な哀れさと楽しさが同居する。けれど、僕のような多くの人のうちの一人の場合、なんとなく危険な香りのする、夜をただひと齧りするだけであり、所属はしない。そのうち、過ごせていた夜も、体力的な理由であったり、その人を取り巻く事情も年齢を重ねることによりしがらみが多くなる方向へと変化し、夜から卒業していくように思う。
村上春樹のいうように、「夜は何か起こりそうで起こらないから過ごしても無駄だ」というのは至極名言であると信じている。僕の人生で、夜に夜的理由で物事が良い方向に向かったことは一度もないとおもう。夜に思いつめていたものに妙案が浮かんだりするのは、その人の知力、胆力、あるいは人間力がなせる技でしかなく、夜遅くまで耽っていたことそれ自体は別にどこにも導いてはくれない。
夜は時間だけを飲み込み、膨らんでいく。多くの場合、夜の出来事は切り上げる方が上手くいく。夜や夜に引きずり込んだ因子に囚われて抜けられないことの方が多い。夜に引き込まれてしまう程度のものを個人の中に抱えられるのは幸せなことであると気付くものの、夜が教えてくれることは、物事は解決するにせよそうでないにせよ、必ず終わるということのみである。
本来文章を書いた場合、ある程度おいてから見返すなどしたほうがよいものの、この文章にはそうしない。これは夜の思考の垂れ流しであるし、そのことに価値がある。
目が冴え切る思いとともに、夜がそろそろ終わりそうであることを認識しつつある。

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この文章は大切な人と喧嘩して、夜の街をひたすら歩いていた時にまとめた。
この文章を書いた頃とは状況も変わり、孤独感に苛まれ、バーで飲むことなどの、夜に所属する人との交流を久々にしてみたものの、刹那的な楽しさは多少あれど、夜はやはり本質的なところで救ってくれないと再び感じている。