外国見聞録と視点の話

スイスに住み始めてから,一貫して真面目にしているほぼ唯一の事と言えば「滞在記」的なことをまとめることである.スイスに暮らすという事を通じて,自分の目の前に起こった事だったり,ニュースであったりなど,物事をきちんと考えてまとめることを月一,二回くらいのペースでやることを主としている.乱暴に言ってしまえば,いろんな国に対して自分なりの偏見を深めてまとめる,ということを真面目にやっているような気がする.○○という国は△△で…というような構文でものごとを考える事が多い.

 この月一でまとめている事を,いくばくかの期間を置いて,気が向いたら公開していきたいな,と考えるようになった.テーマは多岐に亘っていて,最初の月は,スイスにきて路頭に迷っている様を書いた.ある月は,文化比較みたいなのを書いている.これらを公開する前に,「滞在記」的なことをまとめる際についての,もっといえば,異国の地(というと少々大仰だけど)で暮らしていく際についての視点の持ち方について紹介したい.

 海外旅行ばかりして海外を知った感じになった人に向けられた批判として「旅行だけじゃ何もわからない」というのがよくある.観光地やら世界遺産やらを見て,英語で適当に喋ったところで,その国について何かを知れると思うのもおこがましい,という説教である.だけど,外国で暮らしていて思うのは,その国に住んだところで,住んでいるなりの死角が存在する.暮らしていても決してすべてが分かるわけではない.旅行であれば気付けたことであろうことが,暮らしているからこそ分からない事も多い.僕が住んでいるスイスの事について,スイス以外の国に出かけて初めて気付く事も様々ある.

 さらに言えば,自分が生まれて,暮らしてきて,何かアイデンティティを感じている国(僕の場合,日本)だって,死角が存在するし,十全に理解しているとはとても言えない.よく日本人は,外国に行くと「日本では…」といいたがる人が多いのだそうだが(確かにそう思う),日本に生まれついたことは,日本を知っているということを全く意味しない.日本に住んでいるからこそ見落とすことがたくさんある.(これらはいくつか思うところを文章としてすでにまとめているので,いつか紹介したい.)だいいち,生まれて,さらに育った国で暮らしていれば,その国について考えなくても良いわけだし,普通に考えれば,その国について「知る」機会なんてあまりない.そして,そんなことを考えなくてもよいことは,大きなメリットの一つだし,さらにいえば,周りも同じような人に囲まれて暮らしている事は,かなり大きなメリットである.

 要するに言える事は,旅行であれ,暮らす事であれ,ネイティブであれ,どのポジションにも視点が存在し,死角が存在する.

 そういう真実をふまえた上で「滞在記」的なフォーマットでものを考えるとき,大事な問題は「自分が持っている視点と真剣に,柔軟にかかわりあえること」であると村上春樹が書いている.僕がスイスにいる間に少なくとも考えたいと思っている事は,この言葉が大体説明している.僕が説明するよりこの言葉が出てきた文脈をまるまる引用させてほしい.というか上の文章も結局この引用の焼き直しである.

 僕はこの本を書く前にも,旅行記というか滞在記のようなものを一度出した事がある.「遠い太鼓」というのがそれで,僕はその本の中で約三年に亘るヨーロッパ滞在についての文章を書いた.でも今考えてみると,そこに収められている文章の多くは「第一印象」或いはせいぜい「第二印象」程度で成立していた.僕はずいぶん長くそこに滞在していたわけだが,結局のところは,通り過ぎていく旅行者の目でまわりの世界を眺めていたように思う.それがいいとか悪いとか言うのではない.通り過ぎるに人に通り過ぎる人の視点があり,そこに腰を据えている人には腰をすえている人の視点がある.どちらにもメリットがあり,死角がある.かならずしも,第一印象でものを書くのが浅薄で,長く暮らしてじっくりものを見た人の視点が深く正しいとはならない.そこに根を下ろしているだけ,かえって見えないものだってある.どれだけ自分の視点と真剣に,あるいは柔軟にかかわりあえるか,それがこういう文章にとって一番重要な問題であると僕は思う.
「やがて哀しき外国語」のためのあとがき やがて哀しき外国語

 この「やがて哀しき外国語」は,村上春樹アメリカでの滞在を文章にまとめたものである.この後に続く文章は,「遠い太鼓」という前作の3年にわたるヨーロッパ滞在記とは意を異にし,この本では第二印象から第三印象くらいで文章をまとめてみた,という趣旨の文章が続く.ちなみにこのあとがきは外国で暮らしたことがある人にとって,切実に響くものなので,似たような立場にある人・あった人にはぜひ読んでほしい.

 さて,僕が考えをまとめているようなことも,第二印象から第三印象くらいにしたいと努力している.前にも書いたように(文章の出来が悪くて悶絶している),外国に住むという選択をしたのは,海外旅行に限界を感じていたからである(他にもあるし,これじゃ奨学金は取れない).手前味噌ではないが,この予感はかなり当たっていた.いくらもっと海外旅行に出かけても,同じ印象の再生産で,これ以上やっても視点が深まる気がしなかった.それもそのはずで,上の言葉を借りれば,自分が「第一印象」でものを考えていたことと「柔軟に」かかわり合えなかったからなんだなぁと思うようになった.アテネにいってもパリにいってもアンタナナリボに行っても,感じる事は少々違えど,考えるプロセスとして似ていたものがあったように思えて,いつも同じようなところで行き止まりになって日本に戻ってきた印象があった.外国で暮らすという事を通じて,少し別の視座を手に入れて,自分の視点と真剣に柔軟にかかわり合おうとする事で物事を考える新しい道具を手に入れた気がしているし,そういう態度で考えをまとめようと努力している.

 別に「外国で暮らすこと」の視点の持ち方が優れている,ということを主張したいわけではない.この視点が他人と自分を区別するものである,ということを言いたいわけでもない.ただ単に,そういうことをしてみたくなったというだけである.そういう視点を持って暮らしてみよう,と思っただけである.そして今のところ,この視座を気に入っている.正直なところ,きつい事が多くて,はっきり言えば,挫折しかないから歪んだものになっていることも否定できない.これからいくつか考えをまとめたりするものは,そういう視点に立ったものであるということを理解してくれればありがたい.

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)