科学と文学作品

深夜の思索。
文章に記録しないと、頭が悪くなる気がしたので。
twitterはその観点から、制度として悪である。


科学と文学の違いについて考えてみた。

思考のヒントは、「感想文とレポートの違い」という雑談から得たものである。

結論としては、
科学は、科学の方法によって構成された文章によって担保されており、
思考を科学という「コミュニティ」に投げて、
全員が同じものを利用可能にすることを目的としている。

一方、文学は、対話の中で起こること「も」ある。



駒場のゼミの延長戦で、感想文とレポートの違いなんていう雑談が起こった。

よく感想文で賞をとっていたという人は、
「感想文は自分の原体験と近付けて、何をどう思ったのかを書く」
という話をしていた。

かたや、レポートは、論理の演繹によってのみ書かれて、
自分の価値判断は入らないんじゃないか、という話だった。

この話は、科学と文学の話と非常にアナロジカルじゃないか、というのが思考のヒント。


科学は、論文によって構成されている。
いろんな人が、論文を通してさまざまな科学のコミュニティの人とコミュニケーションを図る。
文学は、これもまた、本や文章によって構成されている。

その意味合いで同じだが、その文章(群)の狙い、存在意義が違う。


科学のコミュニティには、暗黙の約束がある。

論文によってのみ、成果が認められる。
で、論文は、暗黙の「思考のルール」、言い換えれば科学の方法によって書かれている。
それらは、デカルトの言葉を借りると方法的懐疑だったり、「論理」であったりする。

具体例を出せば、数学の本を上げることができる。
数学の本は、論理的な演繹の塊である。
この人が、どういう演繹でこういう主張をしているのか、というのを汲む。
そこに自分の価値判断が入ることはない。
論理という、万人の約束の下に主張がなされる。
価値で次の証明の一行の正しさや、定義を「予想」はしても、
結局「予想」をjustifyする演繹を見つけなければならない。

数学の本の正しさは、「論理」が担保している。
誰が言っているとか、どの本に載っているとか、どの大学の人だとかそんなことじゃない。
数学それ自体の外側に、正しさを投げている。


その意味で、全ての科学的な主張は、科学のしもべである。
「個人」というのは出てこない。



かたや、文学は、自分の原体験と惹きつけて読むことも可能である。
このシーンを読んだら、かつての高校時代が想起されました、という、
個人的な体験をバックボーンとしながら読み進めることもできる。
村上春樹が「物語は自分を映す鏡みたいなものです」と言ったが、
これこそが文学の読み方の本質である。

論理の演繹などは意識されていない。
描かれいているのは具体的に個人に想起される「場面」である。
「論理」ではない。


と言った観点から、文学は、対話が可能である。
作者と自分の間にも文学が起こる。
共有、反論、なんでもいい。
作者が設定された場面を、読み手の中に想起させて、読み手の中の体験とリンクさせる。
そして読み手自体が場面の価値を定める。
その価値を持って、次の文章や場面や他の作品を読むと、
読み手はまた違う価値同定を行う。

正しさも何もない。
読み手がこれを読んで何を思うか、が文学作品の肝である。
読んだ順序によって読み手が何を得ているか、も変わる。
その意味で、対話も可能である。


文学は、読み手に価値を投げている。
文学というコミュニティは何もその文章自体の価値を担保しない。



といった科学と文学の比較から、結論。


科学は論理の演繹が科学たる唯一の存在理由であり、
その論理を汲むことが、論文の書き手の主張を汲むことになるが、
論文の書き手、というのは科学のコミュニティの中の没個性化された一人である。

読み手は「科学」を読むことになる。
書き手は「科学」を書くことになる。


一方、文学は、読み手と作者の間に起こる。
もっと言えば、価値は読み手の中にしか起こらない。
作者の意図はあっても、ずれることは多々ある、というかそれが本質である。
正しく読むことなんて求められていない。
場面を読み違えようが、なんだろうが、
読み手の中の何かを想起させればそれでよかったりする。


読み手は、科学や文学の再発信は、

科学は、論理のセットアップや演繹を正しく行う、
文学は、「思ったこと」を根拠(文章の参照と自分の中にある体験)を結びつけて書く

ということをするのがいいんじゃないかな!



文学研究は、
作者の思ったことを追思想することが行われているんじゃないかな、という予想。
文学作品を科学する点で、きっと多くの科学者より、宝探し的な行為に近いような気がする。



さて、疑問は、価値という単語をしれっと使ってしまったが、
じゃあ、これらの「普遍的な価値」は何が担保するんだろう。