おおきな木(村上春樹訳)

最後に。


おおきな木

おおきな木

おおきな木/Shel Silverstein


実は、ついこの間、村上春樹の訳で出版されなおした。
興味深かったので、取り上げなおす。

あらすじ的なものは前回の記事を見てください。
このLOVEタグは、以前書評ブログのオフ会のテーマがLOVEで、
それ用にいろんな本を読んだ時のタグです。


さて、最も目を引いたのはこのページ。


最後、木が木であることの本質(?)に近いような幹まで切られてしまう。

ここで、作者が1ポーズ入れるのだ。


きは それで うれしかった…

だけど それは ほんとかな。



ここが


それできはしあわせに…

なんてなれませんよね


なれない、と言い切っていた。
これ、気になって調べてみたら、but not reallyって書いてあったので、
村上春樹の訳の方が原意を汲んでるかな。
いや、俺は前のほうが好きだけどね。


村上春樹のあとがきがすごく興味深かった。

「人の心を本当に強く打つのは多くの場合、言葉ではうまく説明できないものごとなのです。」


ここだけ取り出すのも反則な気もするけれど、
小説家がここまで言うのはびっくりした。
Siversteinの本は、子供向けのわかりやすい「お話」を書いているわけではない。
そういう意味で、Silversteinは別に誰のためでもなく、自分自身の心にまっすぐ向かってこの物語を描いていて、
その姿勢が子供たちの心を打つ、と。


そういう文脈で出てくるのですが、
村上春樹の文字に対する認識というのが、垣間見える。
結局、彼はこういう文字を職業にしているわけだけど、
この絵本を通して、言葉という物への諦念をもった上でこの本の訳に臨んでいる。
それでも言葉にする、というのは、
村上春樹の場合「物事の整理」だというのは、いろんな本に書いてあるけれど、
そんな職業観みたいなのが垣間見えて面白い。


また「物語は人の心を移す自然の鏡のようなものなのです。」
この一言も拾いたい。


村上春樹の小説がそういう風に構築されていると思うとすごくわかりやすい。
自分は誰それかもしれない。いやそうじゃないかもしれない。
いろんな枠組みを借りて、自分と相対化する。
その相対化は自分の勝手だけれども、その時の自分にとって一番正直な形で、
わかりやすく出てくる。
しかもその対象が文字なのだ。
物語の解釈、それはそういう風にとらえると、人それぞれであることなんて当たり前。
自分の生きて養ってきたセンサーに何が引っ掛かるか、なんて人それぞれ。
そしてそれに映し出して自分を相対化する。
そういう風にとらえると、村上春樹の本もとらえやすい。


そして、この絵本も、そういう相対化にタフに耐えうるものであると思う。
むしろ、こういうシンプルな構成だからこそ、タフに耐えうるものだと思う。


いつ読んでも、そのたんびに見方が変わる。
それは、自分の心を映す鏡だから。


僕はこの話を「不幸な少年の話」だと読みました。
それは今も変わりません。この少年が僕みたいだ、と思ってしまったから。
僕の抱えている自己矛盾的なものを持っているかも、と思ってしまったから。
でも、それは僕の個人的な話。


最後に、
屋根裏の明かりから、面白いものを引用します。


いくつ、いくら


古びた網戸にはバタンがいくつ?
どれだけ力こめて閉めるかによるよ
一斤のパンは何切れになる?
どれだけ薄く切るかによるよ
一日の中にいいことどのくらい?
どれだけ楽しく過ごすかによるよ
友達の中にある愛はどのくらい?
どれだけきみが与えたかによるよ


僕はこれを読んで、「おおきな木」の解釈が前と少し変わりました。



こういう鋭い所をひっくり返す発想が好きなのは、
たぶん中学高校とずっと男子校でいたずらばっかりしていたせい。
いかに常識を打ち破るか、というのはテーマだった。
こういう感性、失いたくないし、養いたい。


時間があれば児童文学とかずっと読んでたい。
でもきっと、大人になる、というより、一歩前に進むからこそ、意味があるんだろうな…
20代のうちにできるだけこういうものを吸収したい。