プレゼントは捨てられないものを

最近また人と話すことについて考えている.
で,気持ちよく相手が話しているなーという感覚を得たときに,
表層的なレベルの話に対して,「なんでそんなこと考えるのか」と問うと,
他の人から見ればどうでもいいような自分の原体験を語ることが多々ある.
例えば,僕は起業してこんなことしました→いや中学生の時にねetcみたいな感じのこと.
その人にとって,多分本人でさえそれは気付いてないかもしれないけど,本当に大事な話なんだろうな,と思う.


ただの自分のアピールであれば,
表層的な部分にロジックをお仕着せしたり,
そのインパクトを定量化したりすると伝わる.
だけど,なんでこの人もともとこんなことに興味持っているのか/そういう状況に陥っているのか,
みたいな話は,大抵個人の(他の人から見れば本当にどうでもいい)些細なことに行きつくことが多い.
僕でいえば,平日の昼間に外を歩いている人を小学生の時に窓から見た話(その話はこちら),というのは,
なんていうか,自分の行動原理の一部を作っている気がする.
この話は人から見れば極めてどうでもいいのだけど,自分にとって本当に大事な話.


ということで,前置きが長いが,
そういう「どうでもいいけどとても印象に残っていること」というのは大事な気が最近している.


そんな話をこれからします.


僕は,プレゼンでもイベントでも,何か他人に伝えることを考えたときに,
「受け手が何を思うのか」ということからスタートして考えている気がする.
自分がアップアップすぎると意識できないんだけど,
これ見た人間何を思うのかなというのを意識する.
徹底できないと自分の中でちょっと完成度落ちたな,と思ってしまう.


そう思う僕の些細な話.「プレゼント」の話.


高校生の時に,L25というフリーペーパーを読んでいて,
今もあるか知らないけど,豊島ミホという作家がコラムを書いていた.
その話は「プレゼント」に関係する話.


こんな感じの話だったように記憶している.
彼氏にプレゼントをあげるときに「別れても捨てられないものをあげる」ことを考えた,
なぜなら物には罪がないから.
別れたときに指輪とかなら拒絶したいような気持ちが入って捨ててしまうだろう.
ということで,当時の彼氏はやかんを持ってなかったので,やかんをあげた.
やかんなら多分別れても捨てる気にもならないだろうから.


という簡単な話だったんだけど,
高校生の時の僕は「プレゼントをあげる行為ていいな」と思った.


当時高校生であった僕の「プレゼント観」に関して,さらにどうでもいい話がある.
小学生の時にクラスでクリスマスにプレゼント交換会をやるかやらないか,という議題があって,
僕は反対していた.
さらに話が進むうちに,僕一人で孤立した.
「これは自分のあげたものより変なの来たら損をするし,
そもそも学校と言う場に何かお金を使うべきでない」
という主張を小学生の言葉で(最後は泣きながら笑)した.
「みんなで交換するのが楽しいじゃん」的な空気に教室に包まれ,イベントが行われることが決定された.
で,結局僕は親に言えないまま当日が来てしまって,
落ちていた定規を画用紙でくるんでプレゼント交換に出した.
「なんでもいいんだよ」と言って説得されたから,これでもいいだろうと思った.
来たのはお高いチョコレートだった.まぁこんなものかと思った.
なんだけど,「斎藤何言ってんの,やるからやるんだよ」として話をまとめた女の子がこんなことを言っていた.
「持ってくる気がないなら,参加しなきゃいいのに.」


この話の大きな問題に,さっきのコラムを読んで高校生の僕は気付いた.
それは,登場人物がみんな自分のことしか考えてない,ということ.
僕は単純に損をしたくなかったし違和感があった.
女の子は,自分の出したものと同程度の物が自動的にもらえると勝手に思い込んだうえで,
まぁ(自分が)楽しければいいよね,くらいことしか考えてない.
だからノイズが入ると,極端に拒否反応を示したんだと思う.
で,まぁそんな腫れものが落ちた気がして,プレゼントをあげる行為は素敵だなと思った.



それ以来(めったにないけど)人になんか物をあげるとき,
その人のことを思い返しながら,買うようになった.
特に何かプレゼントにこだわりたいと思う時は,
「この人なら何を恒常的に使ってくれるかな」と考えながら買うようになった.

その時に意識することは,「これはあいつがくれたもの」と相手に思わせない物をあげること.
恒常的に使ってもらって,たまに思い返すくらいの物がいい.
そうであれば,いいプレゼントだな,と言えるんじゃないか,と思うようになった.


自分が体験した例をあげます.


まずはもらった話.


2年生くらいの時に所属したゼミで,またプレゼント交換があった.
本の交換で,「何を自分が伝えたいのかを考えてから持ってこい」みたいな趣旨だった気がする.
自分が何を出したかは覚えていない.
でも,僕は僕がもらったものを強烈に覚えている.
「星の王子様」だった.
この本は,僕が「何か一冊読めばいい本」を聞かれたときに答えるリストのうちの一つに入るくらいに影響を受けた.
で,後輩に「星の王子様」を紹介したときに,
居合わせた友人に「あ,それ俺があげたやつだよね」といわれた.


僕は一切そんなことを忘れていた.そういやそうだ,くらいだった.
不義理といえばそうなんだけど,
そいつがくれたからという理由で読んだわけでもないし,
そいつがくれたから,という理由で影響を受けたわけでもない.
でもこれは逆に誇るべきことだなぁと僕は思っていて,
それくらいに僕はその本自体に影響を受けた.
この話を1からするのは面倒だったので言わなかったけど,
それ以来,普段は忘れてるけど,たまに強烈に感謝している.



あげた話.


何の思い付きだか忘れたが,何かの思いつきで,
留学に行く友達にプレゼントをあげようと思った.
そのときに思ったことは,
「海外ではなかなか手に入らないけど,日本における普段の生活で欠かせないもの」
をあげようと思った.
僕の候補は,耳かきか,つめきりか,箸だった.手に入りやすさの観点から箸にした記憶がある.
で,帰ってきたときに,ちらっとメールで「箸毎日使ってたよ」ということがしれっと書いてあった.
で,また,この話をするのも面倒だし笑,いちいちいろんなことを聞くのも野暮なので
「あーあげたね,使ってくれてうれしい」くらいのことを返した気がする.
ちなみにあげたことは忘れていた.


でも,これ実を言うと,ものすごくうれしかった.
たぶん相手は,「あいつがくれたから」という理由で使っていたわけではないことが想像されるから.
それは,言ってしまえば,たまにあるくらいがちょうどいいアクセントで,究極的にはいらないものだと思う.
あんまり連絡を取らない人が,自分のあげたものを,自分という存在を忘れた上で使ってくれていたと思うと,とてもうれしい.
ちょうど,人の関係性は違うが,豊島ミホが言っている「やかん」と同じポジションのものをあげられたのだと思うと,本当にうれしかった.
これでもし,あいつがくれたから,の「あいつ」の部分の理由で使ってたら,
僕はプレゼントの考え方の戦略に関してほぼ0から考え直す必要がある気がする.
しかもさらに,うそかもしれないけど,それはそれで知らないふりをしておく.



話はこんな感じで,
結局,僕は他人の,なんていうか本質的な部分をつくのが好きで,
もしそれは僕がしたことの僕という部分が忘却されるくらいに血肉化されてしまうものなら,とてもうれしい.
そういう話に「なんで?」と聞かれたら,このプレゼントの話がある.
プレゼントの話自体は些細なことでどうでもいい話だと思う.
なんだけど,僕にとっては僕がたまに思い返すものすごく重要な話.



P.S.

なんでこんなことを思い返したかというと,
こんな本を読んだ.

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)

Zuckerbergはこんなことを言っている.
facebookはインフラだ.究極的には僕ら(facebook)という存在は見えてはならない」

このコメントに共感して,最近強くまたプレゼントの話を考えるようになった.


よく考えれば,
誰もfacebookを使うときに「facebookを使ってるんだ」と思いながら使わないし,
そう思って使う人はたぶんfacebookは長続きしない.
たとえば「イノベーション」みたいなことの大きな事例として必ずあがるiPadを使うときには,
あれを便利だと思って使ってる人は,Jobsが作ったから,なんて誰も思わない.
たまーに「あぁ,そういえばそうだった.あの人は偉大だったなぁ.」くらいのことを思う.
apple製品に関しては,その頻度が割と高いのだろうけど,
使っているときに常に思いながら使うことは本当に一般的なユーザーであればないと思う.
googleだってBrinとPageが作ったなんて誰も思わない.



他人から話がはじまるべきこと,自分は話に出てくるべきでないこと.
たぶん僕の考えは,そんなに間違ってないのだろうな,と思っている.