場所

4月、キャンパスが本郷に移ってから、実家に帰ってきた。
僕の実家は、大宮というところにある。
2年までは、一人暮らしをしていた。


大宮に帰ってきて、強く一人暮らししていた時のことを思い出す。
確かに実家や大宮という場所の居心地は、以前に比べて確実に悪い。


2年までは、東京だったこともあって、よく夜中に自転車でふらふらしていた。
知らない場所に行くのがすごく楽しかった。
道をたくさん覚えた。
知らない場所でも、知っている道がつないでいる、っていう感覚も楽しかった。
これらが楽しかったのは、当時はやることが他になかったからというのもあるのだけど。


今帰ってきて、そういうワクワクへのアクセスがない。
少なくとも、土地という観点で。
知らない土地に行くってこともしないし、
夜中にチャリを抱えて飛ばす、ってこともあまりしない。


この間京都に行ってきた。自転車持参で。
別に観光していたわけでもなく、ただ単に用があって行っただけなんだけど、
それもそれでただ単純に楽しかった。


この感覚がどこから来るんだろう、って少し考えてみると、出てくるのは
根無し草感と社会感。


たぶん根無し草な感じが悪くないのかな、って思う。
もちろん「腰を据えたい」っていう希望はどこかにある。
いつでも自分の足元を壊して挑戦し続けたい!って話とは違う。


その「腰を据える」という切り出し方と、「土地」っていう切り出し方が関係ない、
あるいは、負の相関にあるのかな、って思ったりする。
どこか行っている時に、どうしても翻って支えにするのは、自分の話。
その土地や実家に自分のアイデンティティがあります、というのが、どうもしっくりこない。
どうしても、何かをしようって考えた時に、「守られている感」ってのが、
今やもうしっくりこないを通り越して、少し嫌になっている。
そういうの全部はぎとって勝負したい、って少なからず思っている。


最近は大学ですら違和感を覚えるようになった。
2年までは「駒場」に腰を据えている感覚がなかったので、あのキャンパス自体にはっきり言えば何の感想もない。
(もちろん期間としては感想はあるけれど。)
3年になってから本郷に場所を移して、居場所ができた。
自分の生活がそこを軸にして回るのだけど、なんかどうしても違う感じがしてしまう。
それは自分のやっていることに対する違和感で「これ俺のやりたいことじゃない!!」みたいなレベル感の違和感じゃなくて、
なんとなく場所という観点から覚える違和感がある。


そういえば、旅行ってのが好きだ。
これ何が好きか、って言われたら、「非日常感」ってのが好きなんだろう。
その「非日常感」ってどこから来るのか、って言われたら、
見慣れた光景から違うところに「自分がいる」っていう感覚じゃないかな、って思ったりする。
全く知らない道で、自転車パンクしたらどーしよ、って思ったりとか。
夜の宿の予定がないともう興奮も絶頂笑。
本当に「個」という存在に全てが集中して、試されている、って感じが好きなんだと思う。


もう一つは社会感。
これは単純にわがままの塊の話で。
実家って社会だなーって思う。
それなりの簡単な契約があって、守らなければならない。
それがどうしても窮屈に感じてしまう。


もう少し他人ときちんとかかわりましょう、ってのはよく言われるけど、
(俺人とちょっと違うんだぜーっていうアピールじゃなくて、これは自分の中で「できないこと」としてとらえているつもり)
結局、かかわり方を意識して学んでこなかったな、ってほとほと思わされる。


自分の親が放任というと変だけれど、勝手にしてね、という感じで育ててくれた。
これ自体にはすごく感謝している。
けれど、これは漫画に書いてあって納得したんだけど同じような境遇の主人公が、こんなセリフを吐いていた。


「束縛しないからこそ、振りほどけるくらいの人づきあいしかできなかったのかな」


そういえば、なんとなくずーっと「孤」で生きてきた感もある。
誰かが自分の領域に入ってくるというのは少ない。
実家に帰ってきても、親ですら入れる気もなければ、別に入ってこない。
よく「スキがない」って言われていたけど、こういうことなのかな笑。


二つに切りだして考えてみたけど、
結局「個」「孤」というのにフォーカスがあるのかな、って思った。
フラフラしているようで、どこかに芯がある人間になりたいのか、
と言われれば確かにそうなりたい気もする。




信じられないくらい遠くに行きたい。
裸一貫で勝負がしたい。
次、どこかに行くとしたら、それはきっと独力で切り開かなきゃいけないものなんだな、って思う。
「今はそのための潜伏期間、高く飛ぶためには潜伏期間が必要だ」というのは、仮定としてよくわからないけれど、
めぐりあわせ的に、今は自分で根無し草な感じを作るというような期間じゃない。
場所としてのめぐりあわせが悪いけれど、まぁたぶんすることはあるんだろうな。
それが、現状の大宮に対する結論。





話が飛ぶけど、いろんなものと、きちんと距離を同定するべきだなーって思っていて、
(すごくこの「距離」のイメージが数学的な距離のイメージなので、伝わりにくいんだけど。
原点が自分の存在で、基底に価値軸を選んで、そのn次元空間での距離、ね。
もちろん全部考えられないから部分空間でもいいんだけど。)
そのうちのしなきゃいけないものの一つに「大宮」ってのがある、ってのだけ書き添えておく。