明るい部屋

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

久々にごつい本の書評を書く。
本自体は結構読んでるんだけど。
なんか書評に選んでいる本がことごとくチャラいことに気づいた笑。


明るい部屋 / ロランバルト


を読了しました。


本の話としては、写真についての議論。
出発点は、ロランバルトの母が死んでしまったところに、母の写真を見つけたところから始まる。


写真自体には、場(ストゥディウム)と刺激(プンクトゥム)がある。
刺激が見るものに対して訴えることがある。
写真自体が意味を持つには、仮面、それは完全に純粋な状態にあること、をもたなければならない。
なぜなら、写真とは一発の偶発性をおさめたものだから、だという。

  • -


以後そんな議論が続くが、なるほど仮面に関してはなんとなくわかった。
純粋な状態を捉えなければ、一般的な意味をもったものは表現できない。
しかしながら、どうして撮影者が意味を込めるのか、
あるいは、我々観客がどうやってそれを同定するのか、ということについては何も触れていない。


偶発性を狙う、というある意味語義矛盾なことが撮影者に要求される。
何かを表現しようとして、写真を撮るということがはたしてどれくらいの意味合いがあることなのか。
(それについては後で述べられる。)


我々見るものにとって、写真をどのように同定するのか。
積極的に写真の中に意味合いを取りに行くという姿勢はこの本にはない。
「仮面」のはずし方には何も述べられてない。
この本は、写真が感じさせる、という純粋無垢な信仰に支えられている。
それがバルトに訴えるプンクトゥムなのだ。
そして、中継物のいらない「写真はコードのないメッセージ」っていう訴えなのかも。

  • -


写真には逃れ難い運命がある。
それは風景を切り取った、ということだ。
写真が写真として訴えることはただ一つ、「それは、かつて、あった」ということのみ。
その風景を切り取った、という動かしがたい「真実」の記録である。


しかし、中にある人物は時系列の上に存在する。
そして、その人物に対して予言されることは「いずれ死ぬこと」
一瞬の空間の描写なのに、実は時間空間がここに圧縮されている。


人物を取るとき、雰囲気までをもとらえることが可能である。
雰囲気とは何か。生命の神秘を顔に反映させることではないか。
これをとらえると写真は、自己同一性以上の意味をもつ。


la chambre claire.
この本のタイトル。
写真は、一瞬を切り取るということから逃れ難いが、
それ自体は明白な事実の切り取りである。
このところから、カメラルシダを引き合いにだしたほうが的確だろう。

  • -


この本を手に取った動機があって。


エセデザイナーの末席くらいに身を置く自分として、写真との距離感を取りたかった。
僕がよくやるのはレイアウトデザイン。
何か情報を示すためにしれっと写真を入れる。
写真の撮り方、入れ方に関して、少し考えたんだけど、写真が一体何ぞや、ってところに答えが出なかった。
もちろん、見よう見まねでできるっちゃできるんだけどね。


バルトがこの議論で無意識の仮定にしているのは、
自分と写真との絶対的な関係、ということだろう。
この関係以外は、写真と接するときにゆるさない。
それがコードなきメッセージ、ってことなのかもしれないけど。


あるコンテクストにおいて、無理やりコード化される写真とはいかなるものなのだろうか。
具体的に言い換えると、レイアウト上の写真っていったい何なんだろうか。


情報以上の言葉を持たない写真は、ロランバルトの議論の対象ならない。
それはロランバルトの言葉を借りると「影なき人」なのだ。
それに無理やりコードを入れ込んでも、情報以上の意味を持たない。


写真自体が、プンクトゥムを持ち得て、何かのメッセージになる。
時系列を想起させるような、写真。
それは、コードもいらない。
でも、この本、写真に言葉がついているんだよね。
それにどれくらいの意味合いがあるんだろう。

  • -

バルトの議論が、写真というところが出発点のはずなのに、死を明確に意識している。
写真に撮られた時点で死の予言をされる。
物に対しては「真実の記録」とされる。(真実と事実がどういうフランス語の使い分けで書かれているのかわからないけど)
そしてそれも死を裏にイメージしている。


この一瞬の写真の束縛から、想起させることがどれだけあるのか。
死から逃れることはできないけど、それが生きていた、ということは表現できて、
そこに生命感を吹き込むことも可能である。
プンクトゥムの質自体が、写真の質であるような議論を垣間見た気がする。

    • -


正直、議論がぶれているのかすらもよくわからなかった
難しい…