怠け数学者の記/ボクは算数しか出来なかった

怠け数学者の記 (岩波現代文庫)

怠け数学者の記 (岩波現代文庫)

ボクは算数しか出来なかった (岩波現代文庫)

ボクは算数しか出来なかった (岩波現代文庫)


結構前にこの2冊を読了していました。
2冊とも大数学者、小平邦彦の著です。


正直、怠け数学者の記を読むと、だいたいのことは書いてあります。
あーまたこの話か、となるので、ボクは…のほうは、いいのかな、って思ったり笑。


ボクは…のほうに書いてあった面白い言葉
専門馬鹿でないものはただの馬鹿」


時は学生紛争のとき。
教授たちは象牙の塔にこもって何も知らない。
ただの専門馬鹿だ!
って話になったときに、小平邦彦が東大の理学部長として出した声明。
本人としてはぽろっと言ったらしい。


学生紛争の議論はいろいろあるんだろうけど、
専門馬鹿でないものはただの馬鹿、という言葉には、高いプロフェッショナル精神を感じた。
ちなみに、プロフェッショナルであることはほかのことから察することができる。


では、数学者は何のプロフェッショナルなのか?


数学のプロ?何それ?数学って何?


よくある話に
数学って何しているかわかんないよね。
ってか何のためにしているの?
式いじってるだけじゃん。


ある一方で、
数学ってロジカルだよね(しゅーかつで有利的な意味で)
という話も聞く。


ロジックが通っていなければならないのは、絶対だけれど、
(飛躍してたり間違ってたらその時点でアウト)
それはただの文法でしかない。
文法に達者であることと、小説を書けることとはわけが違う、と小平は述べる。
でも、論理が通っているのだから、誰にでもわかるか、と言われればそうではない。
むしろ数学嫌いというのは、大量生産されていく。
それっていったい何なんだ。


数学は、扱う現象が「数学的な現象」なのだ。
社会科学が、広く一般「社会」で起こっていることを対象に分析する。
自然科学が、自然現象を対象にする。
それと同じこと。それが見えなければ、もちろん数学はわからない。


明らかに、論理的な推論能力とは別のものがある。
それを方向感覚みたいなノリで「数覚」と呼びたい、という。


これにはなるほどと思わされた。
数学的現象、確かにあるよね。
変な話だけれども、証明に使う次の一手が、なんとなく見えたとき、数覚があると思う。
n次元空間で起こっている、現実ではとらえどころのないものが生き生きと写像に乗って動いているように見える。
これも数学的現象。


という風に、数学的現象ってのはある種の人にとって確実に見えている。
これを明確に指摘したこの本は、すごく参考になった。
結局、数学ってこんなものだよね、ってのが肌でわかった。


社会科学系の人たちが、社会を対象にしている。
残念ながら、多くの大学生が出ていくフィールドが社会で。
そういう社会科学を専門にしている人たちが、一歩進んでいるように見えた。
なんとなくね。
そのコンプレックスを払拭する一個の布石になった気がする笑。


社会に価値を出したい人が社会の話をしているのはしっくりくる。
けど、数学って別に対象がないし、自己満足だよね、っていう批判をいつも受けてきた。
そして、「自己満足ですから」という返ししかできない。


でも、実はちゃんと対象にしている現象があった。数学的現象。
ちゃんと、数学をしているときくらいは僕の目の前で起こっている。
いや、操作性の数学になると見えなくなるけどね笑。


数学的現象の奴隷になるような人が、数学のプロフェッショナルであるように思える。
この本では「自分が好きだったからやっていた」って話は出てこない。
それよか数学の奴隷に淡々となっているさまが見受けられる。
「奴隷」って言葉は宮崎駿の言葉だけど笑。
そんな数学のプロの生きざまが書かれている。



他の項目では、数学の最先端の研究をしていた小平自身がどんな生活を送っていたのか、というのがわかる。
数学の研究ってこんな感じなのね、っていうのが伝わってくる。
とくに、小平自身がアメリカに渡っていた時の話が多い。
著名な数学者に囲まれながら、どういう生活を送っていたのか。
そんな話が垣間見ることができる。


とりあえず、自己満足なのか、ってもんもんとしている数学専攻の人にはお勧めしたいです。