ぼくを探しに
- 作者: シェル・シルヴァスタイン,Shel Silverstein,倉橋由美子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1979/04/12
- メディア: 単行本
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またまた前回も紹介したシルヴァスタインの本。
ぼくを探しに、はまるからかけたほうが、足りないかけらを探しに行く絵本。
「何かが足りない それで僕は楽しくない」
足りない自分を探しに旅にでた「ぼく」は、かけているためうまく転がれない。
いろいろなものにであい、いろいろな状況にあい…
自分のかけらをようやく見つけた、と思っても、それは違ったり…
ようやく自分のかけらを見つけた。
はめてみたら、ぴったりあった。
そしたら、はやく転がれる。
今までちゃんと見てきたものが、ちゃんと見られなくなる。
かぶと虫と競争したり、花を見たり…
まるくなったら、うたえなくなってしまった。
「なるほどそういうことだったのか」
といってかけらを落とし、転がっていく。
「ぼくはかけらを探している 足りないかけらをさがしている。ラッタッタ。さぁ行くぞ。足りないかけらを探しにね」
この絵本、僕は足りないものを探しに行く、っていう話だと思った。
「ぼく」はthe missing pieceを見つけた。
ずっと足りないからこそ見てきたものが見られないし、とうとう歌も歌えない。
結局足りないもの、は満たされても、また足りないものが出てくる。
そしてかけらをそっとおとして、実は足りないほうが物事は面白いということに気づいた「ぼく」。
結局ずーっと足りないものを探し続けることのほうが、面白い生き方なんじゃないかな。
そう思っていたら、この本の解説にやられた。
「大体、私たちの人生は自分の足りない何かを求めてどこまでもころがっていくという物語とはかなり様子の違ったものである。そういうことをある時期に卒業して大人になるのが普通の人間なので…(以下省略)」
………は?
言っていることがよくわからない。
ある時期に人間はこういうことを諦めて大人になるらしい。
この絵本を読んだ最大の謎はここにあった。正直な話。
ちなみに訳者は、この足りない何かを「死」ととらえている。
死を基調に人生を考える、という考え方は悪くはない。
ずーっと「ない」「死」を求めて、転がりつづける本体の話も悪くはない。
この手の話は、たとえば村上春樹の「ノルウェイの森」だったり、重松清の「舞姫通信」に似ていたりする。
でも、僕は異議を唱えたい。
そんな諦念が占める観念的な絵本ではない気がする。
しかしながら、この話、足りない何かを探しに行く、というシンプルだからこそ、えぐられた感がある。
結局、足りない何か、を考えさせられてしまった時点で、シルヴァスタインに負けたと思う。
3年生になってから、自分は足りないものだらけ、ということにようやく気付いた。
自分が頭が悪い、ということをすべての行動原理とおき、行動してきた。
足りない何かを探しに…
僕はいつか諦念を身につけるのだろうか。
でも、うまく転がれなくても、花は見られるしかぶと虫と競争はできる。
結局、そんな次元の単純な話なんじゃないかな。
この絵本には冒頭にこんな注釈がついている。
"For those who didn't fit And those who did. "
だめな人とだめでない人のために。
シルヴァスタインは、だめな人か、だめじゃない人に、「だめさ」=missing pieceをめぐる人生の話がしたかっただけなんじゃないかな。って思ったりする。
大人が、自分に対して自覚的であり続けるための一冊であるといっても過言ではない。