ひとを「嫌う」ということ
- 作者: 中島義道
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2003/08/01
- メディア: 文庫
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を読了しました。
最近の本読みのテーマは諸事情でLOVEでして、それの一環として。
ひとを嫌う、っていうことはどういうことだろう、と分析した本。
人間は好きにならないことってことが絶対におこらない、ということと同様に、
嫌いにならない、ってことも絶対におこらない。
しかしながら、嫌うって不道徳あふれる行為として認識され気味だよね。
でも、絶対に起こらないわけだから、そう認識し続けるんじゃなくて、嫌いということから逃げないでおこうよ、という本。
嫌いの原因ってのは
(1) 相手が自分の期待に応えてくれないこと
家族などに多いケースです。自分の期待に応えてくれない、感情をわかってくれない、など。
(2) 相手が自分に危害を加える虞があること
弱みを握った相手を嫌う、恩着せがましい人を嫌う、など。
(3) 相手に対する嫉妬
自分より優れたものを嫉妬し、相手の没落を願います。
(4) 相手に対する軽蔑
(3)の逆です。自分より劣ったものを嫌悪し、相手を視界から消そうとします。
(5) 相手が自分を軽蔑しているという感じがすること
(4)のバリュエーションです。特に成功者・不成功者のパターンに多いようですが、不成功者は成功者からの軽蔑を感じて、相手を嫌います。
(6) 相手が自分を嫌っているという感じがすること
これはちょっとおもしろい嫌い、です。理不尽になんとなくですが、相手が自分を嫌っている、と思いこんだ瞬間、相手が嫌いになる、というものです。
(7) 相手に対する絶対的無関心
これもおもしろい嫌い、です。自分が無関心な相手が自分の周りをうろちょろする、ということ対して、嫌い、という感情を持ちます。
(8) 相手に対する生理的・観念的な拒絶反応
中島氏は「嫌いの結晶化」と呼んでいますが、(1)〜(7)が累積して、ある段階から、その人の存在・人格自体がすべて嫌いになる、という状態です。多くの場合、自身の弱点を相手に投影して、嫌いになります。
他ブログより引用。
ってあるわけですね。
人を嫌う、あるいは好くときって理由がない。とくに嫌いは顕著。
でも、理由は大体上の理由で決まっている。
しかしながら、なんとなく嫌いだから、さけよう、ってなる。
そうじゃなくてきちんと、なんで嫌いかを同定し、距離を測り、そして距離の取り方を考える。
真摯に「嫌い」と向き合うことが豊かな人生では、と言っている。
「愛」という文脈でこの嫌いをとらえてみる。
氏の本の最後に、嫌い合う夫婦の例がでている。
ずーっと言い合いをしている。
じゃあ離婚すりゃあいいのに、と思いつつ、しない。
人間ってのは、どうやっても個体差がある。
他人の、自分が受け入れられないところ、あるいは自分が受け入れられるところ。
上の項目は、マクロに人に対して適応しているけれど、項目に対しても適応していいのでは、と思う。
他者を自分の中で受け入れるとき、
こいつはまぁここが好きだから受け入れよう、というのが多い。
まぁ嫌いなところもあるけれど、目をつぶろうかな、といった消極的な態度。
あるいは「なんとなく」受け入れることが多い。
目をつぶるんじゃなくて、なんで嫌いか、を同定し、
そしてそこに対しても積極的に扱いを考える。
それこそ、さらなる人を受け入れる、ということではないかな、と思う。
自分の理解だと、
愛と嫌いは行為としての裏返し、さらにその愛の究極の対極として、無関心ってのがあったんだけど、
この本ではそう定義されていない。
無関心も嫌いの技術のうちなのか、というとそうではない気がするんだけど、どうだろう。
積極的な行為として、嫌う、そしてその技術を身につける、ってことを考えると、
無関心ってのは、それはいろんなことを含めた「逃げ」な気がする。
無関心を同定するのは結構困難なことだと思うんだけどね…
テーマはLOVE.
積極的に、そしてすべて、その人として受け入れ、
扱えずとも、少なくとも扱いを考える。
ひとを「嫌う」ということでした。
※論点?
受け入れる、ってどういう行為だろう。
嫌いであることを相手に伝える、というのはどういう行為なんだろう。
自己嫌悪に関する記述も興味深かった。
自分の期待のアクションを起こせないとき、自己嫌悪になるよ、ってのが縮めまくった要約。
期待しすぎちゃいけないのかな。
いやまぁ、このブログは「自分が頭がわるいこと」を出発点として、つづることを目的としています。