何でも見てやろう 

何でも見てやろう (講談社文庫)

何でも見てやろう (講談社文庫)

何でも見てやろう 小田実
を読了しました。

この手の旅行記としては古典、どの本でも絶対に言及されている。
そして避けては通れない類の旅行記の本。

中身としては、ふらっと世界を貧乏旅行してやりました、みたいなお話。

この本を二点のポイントに分けて書評を書きたい。

「ひとつ、アメリカに行ってやろう、と私は思った。」
まさに何でも見てやろう、というスピリットに根付くこの一言。

そして展開される破天荒な旅行…


この話には実は裏話がある。

かの小田実氏が亡くなった時に、遺品を整理していたら出てきた一冊のノート。
そこには、行く予定の場所が事細かに事前に調べぬかれていたという。

こういう裏話を知った上でこの本を読んだことをはじめに申し添えておきたい。


なぜ人は旅に行くのか。


僕自身も旅行は趣味で、小田氏ほどではないが、夏に二週間折りたたみ自転車を抱えて野宿を繰り返す旅をしたり、
ロードバイク紀伊半島を一周するような旅行をしたり…と、比較的「無茶」とも呼ばれそうな旅行をする。

そして僕の問題意識はここにたどり着く。なぜなのか。


小田氏は「西洋」を知りたがっていた。
そして、そんな西洋、20世紀のどんづまりを見てやろうと一路アメリカ、ヨーロッパへ行く。

驚かされるのは、普通に外国人と会話をやってのけることだ。
甲板の上で一日中議論した、昼食にお呼ばれしたので行った、などそういう記述があちこちにある。
でも、これだけ西洋に対しての問題意識を抱えて、人とコミュニケーションを続けていれば、話すことも身を以て増えるのであろう。

得たもの、それは見たものそして人と話した時間空間それ自体である、という自信を感じる。

こういうのを見るにつけ、旅行とは突発的にこうして世界中を旅回るものだ、と結論付ける人がいたりする。


でも、実はそうじゃない。
何を問題点としているのか、そして何を見定めるのか。
そうした意識をもった上に、何かをセンスして、それ以上のものを経験する。

そんなフレームワークが旅な気がする。

人は得てして、予想していなかったことをよく記憶する。
そしてまた、極限状態のことをそれなりに覚えている。
どんな旅行記を開いても、鮮やかに語られるのはこれらのことなのだ。


「何でも見てやろう」
それは自分の予想の検討をつけ、それを超えたものを見に行く行為。
インプットという名のアウトプットの行為。

そして最後に日本とは、ということを語る。
「日本が縦長の列島で見えた」
ということを主張する。

自分のバックグラウンドとは違うところに赴き、極限状態をやりすごすということは、
土着とは違う、けれどそこにいる、ということをまざまざと感じるのであろう。(経験上僕もそう笑)

予約されたホテルに泊まり、シーツがあり、そして次の日の行く場所と寝るところが約束されており…
日本から厳重に管理と予測されたもので、旅行に行っているようで、何も見に行っていない。
何かを見るというのは、経験するというものは、本来身体性に、そしてそれは生きるという行為と結びついた行為であるように思える。

そしてその違う場所の体験が、自分の中に根付くとき、余所性が自分の中に芽生えるとき、相対化されるのであろう。

旅行、それは相対化の行為。
そんな気がする。

しかし大学を出るまでにはきちんと旅の仕方を覚えたいな。

経験

ちょっと最後に最近考えていることを。

「学ぶ」ことについて、経験ということは必須なのだろうか。

どうも、僕自身のことを考えると、経験から学べるもの、っていうのが身体についている。
そして、本だけを読み説いた知識ってのはどうも死んでいる気がしてならない。

この本は、西洋を「経験」しに行った本だととらえてみよう。
生き生きとその西洋を語る。そして、インドの貧困を語る。

この西洋を論じるとき、経験ってのは重要なことなのだろうか。
体の中に確かに息づいているのは感じる。
これを経なければ…って作者も最後に述べているし、それは重要なことだったのだろう。

経験を上手にする。
コレのキーであることが下準備であることがこの本からは読み込めるのだけど、
そもそも的に、では経験がないというのはそんなに痛いことなのか?とも思ったりする。

どうでしょうか?
僕はこの点に関してわかりませんが、経験を大事にしたいな、とは思っています。


二個目はよくわからんね、ごめんなさい。



最後の文章に、日本はどこに向かっているのかわからない、という記述があった。
元気がない、と。
かの安藤忠雄はこういう。「現代は、『主題無き時代』だ」と。

高度経済成長期を経た日本はしばらく日本国民が同じようなドグマを持っている、というのが一般の印象である。

この本が出たのは'60年で、高度経済成長前だ。
しかしながら、こういった現代の安藤忠雄と同じような主張をする。
ひょっとしたら、これは日本人が宿命的に抱えるものなのかもしれない、とちょっと思ったりする。
それは、この本のレトリックを借りて言えば、日本が西洋に乗っかっている、からかもしれない。