理解とは何か

本を読みました。

全然今本読めてないなーやばいな。

少しは読んだのですが、まとめる時間がなかなかなくて…
うーん…

理解とは何か (コレクション認知科学 2)

理解とは何か (コレクション認知科学 2)


理解とは何か - 佐伯胖東京大学出版会

この本を手にとった理由がいくつかあるのだけど。


1.本を読んでも正しく知識が手に入った気がしない

2.残った気がしない

3.そもそも正しい知識って?

ということが全く分からなくなってしまって、手に取った次第です。
あとこれ系の本だとまだまだ読みたいのがあったり。

さて、この本ですが、
心理学選書的なもののシリーズの一冊です。
心理学の本は高校のときに入門書を読んでいた上に、
教養の授業で一番、というといいすぎだけど、興味深く聞けた授業の
一つの中に心理学の授業があったのが幸いして、
とりあえずこういう本でも、何をどのような流れで言っているのか、
なんとなく「わかる」というのは、それなりの財産だと思っています。


この本は、ばらばらの人の講演録的な構成なので、
一貫したものが体系的に書かれているわけではないので、
章ごとに紹介。


こういう本はこうやってまとめとこ、って思った。
ブログに出すことじゃないけどね笑。

1章
理解の文脈依存性、というお話。

wound と scarの間に違いがあるよね、って話。
戦争でwound, 頬にscarがあるよね。
でも傷つけられたらwoundになる、と。
こうやって文脈によって異なる、という話が問題提起。

これらの言葉に潜在的な意味合いが存在し、それが顕在化の条件で、それをもって言葉を使います、という議論。

で、この言葉の「使用」の違いは、別のパラダイム間では、完全な連続性がなりたたないのでは?というクーンのパラダイム論を援用して説明できるんじゃないか、ということ。
ex,量子力学古典力学での「質量」や「速度」という概念の違い

人間同士が、全く同じように理解して言葉を使っているとは思えない、ということから、これが個人レベルにまで、適用できるのでは、という仮説を立てる。
(クーンはパラダイムを集団レベルで規定している)

パラダイム論にはもう一つ側面があり、「同じパラダイム間でのコミュニケーションの可能性」があるのでは、という主張をする。

パラダイムは言葉の使用に関する条件を与えるなら、シンタックス(構文、文法)だけではなくて、セマンティクス(判断基準)を与える。

このパラダイムは、クーンは固定的概念だと主張するが、筆者はもっと次元の高いダイナミックな空間としてとらえればいいんじゃないか、という。

(3次元的、と書いていたけど、独立したパラメータの個数が次元数だとすると、3次元っていう主張がいやだ笑)

で、このネットワークの有機的構造変化が、文学的表現を援用すれば自己改革が、わかったぞ、っていうことじゃねーの、ってのが筆者の主張。




2章
数学の理解って何、ってお話。

「わかる」ことがわかならい。
わかった瞬間に何を思うのかがよくわからない。一瞬にしてその変化がおこるが、それが何か解せない。
数学の問題に対する理解の発見は、3つの段階がある。(アダマール「発明の心理」
1.問題を整理する期間(準備期)
2.意識の統制をゆるめ、無意識を開放する期間(弛緩期)
3.えられたインスピレーションを具体化して、まとめる期間(整理期)

しかし、一度わかってしまうと、こんどは「わからない」ことがわからない。
理解できなかったことが理解できない、という状況になる。

となると、数学の理解が無意識と関係しているんじゃないか、となる。

「できる」と「わかる」は何が違うのだろうか。
やり方がわかる、手続きの習得(できる)
わけがわかる 意味内容の理解(わかる)

これは両者同値ではない、という実験結果がある。(いやそりゃそうだよねw)

これら両者がからみあって数学の理解を達成しているのは明らかだよね。

で、実験してみたところ、
意味内容を理解しないで、ただやり方だけを身につけている場合には、似たような問題ならできるけど、条件が変わるとできなくなる、適応が低い、という結果が出た。

数学を「もの」の操作、ととらえてみる。

動作→イメージ、シェーマ→記号
という推移、あるいは逆の推移が数学の理解にとって重要じゃないか、というのが、タイルを用いた計算で小学生に算数を習得させる実験によって明らかになった。

数学は、さらに操作性な性格ゆえ、動くイメージ、変容するシェーマが重要ではないのか。

つまるところ、数学理解には二重性があるのでは、という主張

1つは、リテラルな側面。数学の論理を把握するということ。テキストが何を言わんとするのか、をきちんと把握すること。
試験は数学的形式だけを問題にしている。

もう一つは、テキストがなんでそう書かれているのか、や、そうした論理展開はなんで思いついたの、っていうことの理解。この「なぜ」がわかったとき、本当に「わかった」って多くの数学者は言うらしい。

普通の証明を字義どおり読むことは、証明をフォローしただけだ、という。

証明を見ないで、再構築したり、要約したり、パラフレーズしたりってのは深い理解が必要だよね、ということ。


で、この「なぜ」ってのは何か、っていうと、ことわざみたいな、文脈的理解のことではないか。
理解にも、図と地がある、それが数学でもきわめて重要ではないか。
図は地の中にいないと目立たない。こうして理解するには、それらをリンクさせて把握してないければならない。
しかしまた、切り離して引き離して使いこなせなければ意味がない。



これをもう少し具体化すると、行動とイメージ、と言えるのでは。
イメージで把握する人、さらにモヤモヤ型、一瞬で物事がわかった、と収束する人ってのがいるんじゃないかな、という主張を最後にする。


3.
理解におけるインタラクションって何だろう。

理解のはレベルがある、っていう話から始まる。
なんで、なんで、なんで、と繰り返したところで、どこでわかった、と離脱するか。っていうこと。

で、たとえば2人のチームワークである物の構造の解析を行ったところ、2人は別にとくに一緒に何かしている、というわけではない。
でもとりあえず続けると、一番下の階層に落ち着く。

しかしながら、この一番下の階層の理解のしかたが全く違う。
同じ理解の仕方がでてくるというのは実験結果としてまずないらしい。

つまるところ、一緒に作業したところで、「ひとつの共通理解を作り上げる」という意味でのインタラクションは全く起きていない。

じゃあインタラクションって意味あるの?って言うとそんなことねーんじゃねーの。
互いの答えをチェックしあうメカニズムになっているのでは、と主張する。
自分の「正しさ」にほかのひとからの「正しさ」のチェックの可能性がはいる。
これがインタラクションのメリットであろう。

で、さらにこれに対してさらなる特徴は、
よりわかってない人の批判が役にたつ、ということ。
自分が理解した、と思っていることに対して、理解のレベルが「先に進んでいる」人に対して、批判することによって理解のレベルが深めることができる。

つまるところ、違う見方が併存するということはすごく疲れる、ということだ。
自分が当たり前だと思っていることを当たり前だと思ってくれる人間と話している範囲の中では、新しいことが出てくるインタラクションは大変だ。

課題解決係とモニター係っていう二つに落とし込んでみる。
一人が作業をし、一人がそれに批判を加える形。
話題と密着したものではあるが、少し飛躍した提案は、モニターしている人から出やすい。
つまり、こうやって理解を深めるチャンスが生まれるのではないだろうか、という主張でした。

「偉大なる素人の集団こそ、もっとも独創的である」


4.興味無いのでよく把握していませんw

5.
理解研究の系譜のお話。
記憶の話から始まる。
「知識」が実験的に発見されて、認知心理学が発展した。
記憶には二つのメカニズムがある、短期記憶と長期記憶。
短期記憶は単なるデータであることが多いが、長期記憶はストーリー性など、一個抽象的な形であることがおおい。
となると、長期記憶ってのは理解の話に近いんじゃないの?
なぜそうなのか、どうしてそうならなければならないのか、ということをよく考えると、記憶によく残るらしい。

思考は文脈に依存する。
正しい思考は、一般的にあてはまるだろう。
しかし、正しいってなんだ?どの程度広い範囲に思考を応用できれば正しいのか?

ここでメンタルモデルという概念を持ち出す。
台風の状況をラジオで聞いてもわからなかった外国人が、天気予報で見て、二本が南北じゃなくて東西に長いんだ、ということを一気に理解するようなことをメンタルモデルという。
1.無意識に勝手に作ってしまい、思い込みの中にしまわれる
2.一挙にたくさんのエラーが訂正できる。

認知心理学の過程では新しい概念で、
1、無意識で作られる
2、正解よりかはエラーをただす方向の概念
3、ふとした思い直し、一瞬の解決
4、よくわからない
の点で新しい。

さらに知識の使われ方(思考の違い)の例を教材の心理学の観点から説明。

こうやっていろいろ歴史を学ぶことは、過去の研究者が「気にしてきた」ことなので、枠組みが新しくなっても、気にしなければならない。
興味深いトピックにすぐとびつくのではなくて、背後のもっと大きな問いに注意を払って、議論の進め方が強引ではないように注意すべきである。




まとめたら疲れた…w
4は本当にあまり興味をもって読めませんでした。5は、それなりに面白かったものの、筆者の主張というよりかは、歴史の系譜でしたので、羅列的になりました。

この本の話ににしたがい、こうやって読んだ本の知識を「使って」一つの議論を主張してみることにします。

もともとの自分の問は「物事がきちんとわかった気がしない」ということでした。


「わかった」という事実だけでは、じつは「わかっていない」んじゃないか。

この本を読んで思ったこと。

まずは「わかった」ということについて。
わかる、ということに関しては、ある事実、たとえばこうやって読んだ本などに対して、ストーリーでつなぐことができるか、ってのが、それなりにわかった指標になると思う。
いわゆる「パラダイムシフト」を起こしたあとにすべきは、そのチェックであり、そうやって理解を通すことで、長期記憶として保存する。

本に書いてあることを字義どおりにまとめてみたとする。

はたしてそれでわかったのだろうか。

これでは、長期記憶としてあるけれど、わかったとは言えないような気がする、というのがこの本を読んだ感想。

まずすべきは、具体例を付してみる。
理解が上手に適用できるか、そして適用できなかった場合、どうして適用できなかったか、を考えてみる。
何のために知識を獲得するかによるけれど、広範な問題に対処するためである場合、こうやって少しづつ適用範囲を広げてみるのが効果的だと思う。

そして、他人に説明してみる。
これは何の効用があるか、というと。
まず手に入れたロジックを整理し、自分の言葉で再構成する、ということがわかることへの第一歩。
さらに、他者の他者性を認めることにより、批判をもらい、さらにもう一つ深いレベルへの理解へ達すること。


まず最初に「わかった」と思うパラダイムシフトを起こす段階では、それはただ単に「パラダイムシフト」を起こしただけであって、だからどういった、ということはない。
それはただ生のマテリアルであって、短期記憶にしかすぎず、すぐ消えていく。
言いかえれば、その瞬間に「面白い」と思っただけで、それがきちんと残る、すなわち理解した、ということにはならないのではないか。

そうして、そのわかった、と思ったことに対して、徹底的に疑ってみる、徹底的に使ってみる。

数学の言葉にしてしまえば、概念(言葉の羅列)を別のイメージなりなんなりであらわしてみる。
ほかの概念に適用してみる。これとのアナロジーではないか、とあれこれ考えてみる。具体例を探してあれこれ適用させつつ、反証を目指してみる。

といった、課題を自分の理解によそから与えてみる。そしてさらに他者に説明する。

インタラクションでいう他者、それをもっと広範な概念にしてみて、他者性を利用してのみ、理解の段階を進めることができる。

それを使えるようになるには、動的なイメージと一緒に他者性の利用に含むのがよいのではないかな、と思った次第である。


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人に話すのが苦手だなーって結構思っていた。
何勉強しているの?って言われて、適当に答えると、そこで話が終わることが多い。
さらにいえば、この間こんな本を読んだ、といって本の概略を説明しているうちに、何を言いたいか忘れてしまうことが多々あった。


これって何なんだろう、って思ったところ。
結局これは「知ってる」ことの塊だったんじゃないかな。って思う。それの精度はともかくとして。

何のために「知るのか」その目的意識をはっきりさせなきゃいけない。
といっても目的意識にこだわる必要はないのだけど。


「目的」を強く意識すること。


いろんな勉強していても、ばらばらなことを勉強していて、空しい気持ちに駆られることが多々あった。あるいはいろんな本を読んでも、で、何?と思うことが結構あった。

けれど、自分の言いたいことのために、その知識の要点を取り出し、切り口を変え、主張用にカスタマイズする。

そのために勉強する。

さらに、現象に対して、ものを見る枠組みを増やす。
「現象」さらにいえば世界っていうのは本当にカオスで、いろんなものに満ち溢れている。
一つのエアコンを取るにしても、マーケティングを見るのか、エアコンのセンサを見るのか、あるいは環境問題を叫ぶのか。
あらゆる先人たちの知恵と、先人たちの作り上げた枠組みを用いて、ある主張をする。

そうやって、いろんなことを知っていくのがいいんじゃないかな。
「教養」と呼ばれることも、他者性のチェック機構として上手に使う。
さらに、自分の主張用にカスタマイズする。

教養を勉強しなければならない、というドグマにとらわれるのではなくて、
まずは主張を見つける、という主眼に立って、勉強するのがいいんじゃないかな、って思ったこの本の所管でしたとさ。



図書館に返しちゃうから、きちんと内容メモとっておこう、と思ったけど、印象に残ったあたりを中心に再構成したのだけどこれめちゃくちゃ時間がかかる。
本を買う、ってこうしたい、と思わせた本を買うことなのかな、って思ったりしました。いやーしんどい。
体系の本はこうやって残すのはしんどいね。
「感想」を残しておくだけでいいのかも。


さらに今興味あるのは「理解」と「経験」のつながりです。
旅行した時に、国道沿いに立地する理由とか、この都市が栄えない理由とか、身をもって説明できる気がして。
数学は身を以て説明はあまりできないのだけど。
この「経験」ってのは理解に対して大きく影響あるのかなーっておもったりしていて。
今はそんな本が読みたい。