おおきな木

おおきな木

おおきな木

おおきな木/シルヴァスタイン
を読みました。
この本は、スゴ本オフで紹介されていて、興味があって。


簡単な絵本です。

ストーリーとしては、
りんごの木が、子供に対してものを与えていく。
大きくなっても、その子がやってきて、木にいろいろなものを求めていく。
「人生に疲れたから船がほしい」
「わたしの幹を切り倒し、それで船をつくりなさい」
といって、最後には幹まで持ってかれる。


最後の最後に、老人になったその子がやってきて
木「わたしには何も与えられない」
子「休みたい」
木「切り株に腰かけなさい」

きは それで うれしかった。



といったストーリー。

……これ本当に絵本か!!っていうくらいえぐい内容だった。



いろいろな議論があって。
エーリッヒフロムの述べる「与えることが愛」というのを表している!というのも、感じることができる。
この子供は、別に木に何もしない。
木に何かを与えるわけでもなく、ただただ子供と一緒にいるのが楽しい。
そして、何かを与えて、子供が喜ぶ姿、それ自体がうれしい。
見返りを期待しない、けれど与える。それこそが愛ではないのか。


最後、木が木であることの本質(?)に近いような幹まで切られてしまう。
ここで、作者が1ポーズ入れるのだ。


きは それで うれしかった…

だけど それは ほんとかな。


この一言が割と気になる。
この木は、本当にこの子のためになることをしたのだろうか。


原題は the giving treeで、与える木といって、木が主人公なのだけど、視点を変えて、この子供の目線で見てみることにする。


この本、かなりえぐられたような気がした。
この男の子のほうが、なんとなくシンクロしてくる気分だったからだ。


実は、絵を見ていると、この男の子が、最後不幸に描かれている気がする(気のせいだろうか)


男の子はいろいろなものを要求し、木はいろいろなものを与える。
与えることそれ自体は愛なのだけど、この男の子が、最後人生に疲れてしまった理由は、「愛の受け方」の訓練がされていなかったからではないのだろうか。


男の子は、思いついたときにやってくる。
そして、その時の欲望をただ満たすためだけに木にものを要求する。
さらにそしてまた、木のことを忘却する。


「かなしいことばかりで いまさら あそぶきもちに なれないよ。 ふねに のって ここから はなれ どこか とおくへ ゆきたい おまえ ふねを くれるかい」


この前には、結婚するために枝を持って行ったはずなのに、遠くへ行きたいと言っている。
家族はこの時点で持たないと解釈してもあまり差支えはないだろう。
この男の子は、確実に年を重ねることにつれて不幸になっている。


ただただ、愛を愛としてではなく、もっと無機質な関数的なものとして男はこの木をとらえている。
木の気持ちにも気付かず、ただただこうしてもらっていくだけ…
さらにいえば、きっと愛自体を完全に取り違えている。


最後には、かなしいきもちになり、船にのって遠くへいったかと思いきや、もはや何も残っていない老人として描かれる。


「愛」とは「与える技術だ」と主張したエーリッヒフロムの話の主張ともアナロジカルなものを感じるが、実は愛の受け方、の訓練も必要で、
木から何も疑問を持たずに、愛に気づかずただただ与えられるだけ、といったことの先には、不幸がまっている、というのをシルヴァスタインが書きたかったことの一つではないだろうか。



最後にはふっと大団円が待っている。


おとこはもはや切り株となってしまった木にこしをかける。


きは それで うれしかった



もはや何もものは与えてない、けれど、そこにも愛がある。
もはや無償の愛の極みである。


正直、こういった形の愛を実現できるとはまだ思わない。
けれど、こういうものに気づいたとき、目指す形の一つにしたい、と思った。

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シルヴァスタインは生涯自由人だったそうだ。
絵本作家は、どうやっても「大人の目線を残さない」のが積み残された宿題で、
終始それと戦わざるを得ない。


シルヴァスタインではないが、別の絵本作家のドキュメントを見たとき、
自分で書いた絵を眺めて「この中には大人な自分がいる。くやしい」という。


多くの人は、無感動なおとなになっていく。
おおくの大人が無意識という名の忘却に落とし込むようなことを、えぐりにいくのがこういった人たちの宿題なのだ。


そういうことを突き詰めると、ひたすらに自由な生活を送ったり、また別の人は家にあるものさまざまなものに顔を書いて話しかける、などをしたり。
定まった固定観念、あるいはルールを裏切り続けるために、常識では考えられない苦労をする。
そうではないと、こういった絵本は書けないのではないか。


こういうこと、ときによって失われていくものに対して自覚的でありさらにそれを表現することには多大なエネルギーがいる。
けれど、そういったことに自覚的でありたい。