セミナーの感想

この間はセミナーだった。可換環論。
Atiyah-MacDonaldのAn Introduction to Commutative Algebraを読んでいる。
内容をブログでまとめるのは時間がないからなのか、やめてしまった。


自分の発表だった。
さすがに発表も3周目だったので、
なんとなく「どうなったらまずいのか」というのだけはわかるようになった。
最初は本当にひどかったな、と今にして思う。よくあんなのでやってたな。


数学は論理の演繹で作られている学問で、
もちろん、演繹の方向感覚みたいなのはあるけど、
それも全部論理として矛盾ないのは当然のことながら、
飛躍ない議論を展開できなければならない。
飛躍がゆるされるのは、真に理解してから。


で、大抵の場合、紛糾するのは理解不足のところから。
質問が入って、自分で証明を展開することになる。


理解不足を減らそうとする努力は出来るようになったな、と思う。
もちろんまだまだ減らないけど。
一行一行、なんじゃこりゃって思いながら、読む。
わからない言葉や記号や演繹があったら徹底的に明らかにしないといけない。


さらに、ごまかしたくなる自分と戦わないといけない。
いやこれそうだろ…と思いつつも、証明がつなげない限り数学として「予想」のままだ。


厳密なレベルで話をつなぐことにフォーカスしすぎることだけも実はよくない。
話の精度が変わっても、きちんと話ができないといけない。
証明のアウトラインはこうだった、とか、ここがポイント、とか。
図形的なイメージ、というのはたぶん大事。
抽象的な証明に、絵をつけてみる。絵でも理解できるようにするのも大事。



いつも、紛糾するのは反省するんだけど、
さらなる反省点として、紛糾してからのリカバリーが遅い。
どうやろうかな、という手法を全く持ちえない。
そういえば、演習問題を解くというまともな訓練を全く受けていないのもあって、
(独学とはこういうことなんです笑)
どういう「手法」で証明を展開するか、というのを全く説明できない。
感覚的にはこうだろう、とは思っても、きちんとつなげない。つなぐ言葉がない。


原因はなんとなくわかっている。
セミナーをやると、大抵テキストがあるんだけど、それに依存し過ぎている気がする。
理解はしている。読めはする。読めばわかる。でも自分の中には入っていない。
メモが手放せない。一行後に何が書いてあるかをノート見ないとわからない。


河東先生という人が、セミナーのやり方という記事を書いている。
割かし有名な話なんだけど。


僕が上で述べていたことは、この記事の一段落目にすぎない。
この記事を大学二年生くらいで最初に読んだとき、
「うはっ数学科気持ち悪いなこんなんほんとに言ってんのかよ…」と思ったけど、
実際これくらい最低限できないと、数学できないんだな、と最近は心の底から思う。


最後は自分でまっさらの状態で命題を立てて、証明できないといけない。
少なくとも、証明するには、いろんな証明の「方向感覚」「厳密感」「手法」などなど…
全部僕のキーワードなんだけど、そういうものが必要で。


それを全部身体に血肉化しないと数学はできないな、という気がしている。



テキストは最初は対話相手である。
人が作っているものなので、実はものすごく人間くさい。
テキストを書いた人間の人生を垣間見ないといけない。
この人は何を知っているのだろうか、どんな気持ちで証明にこれを選んだのだろうか、
この定理は一体なんなんだろうか…
そして、テキストという物との対話を終えたら、今度は自分が発信しないといけない。
どういう方向なのか、これは一体なんだったのか、数学的にきちんとしたことなのか。


最後は人に届けないといけない。
さらに、数学という、誰からも独立したモンスターに命を与えないといけない。
そしてそれらはまだまだ遠い。


次のステップは、(もちろん現ステップにも反省点は多々あるけど)
理解から、気持ちを汲むところに。
真に理解することから、さらなるステップとして、自分の中に落とし込むところ。
次はここかな、と思っている。